原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

『すずめの戸締まり』

 『すずめの戸締まり』を見てきました。

 平日夜、複数のスクリーンで重なる時間帯に上映されていることから、お客さんはごくまばら。自分が座っている列に人は座っておらず、私より前に人影はなし。私は、基本的に人が少ない映画館が好きですが(経営的には心配になるけれども)、この映画は、視界の範囲に人がいない状態で見てよかった、となんとなく思う。

 『君の名は。』『天気の子』『すずめの戸締まり』は、ひょっとすると三部作と呼ばれることになるのかもしれない──というのは、このあとに続く作品の方向性にもよるけれど、いずれも災害が映画の中に色濃く存在する点が意識的だと思われるからだ。『天気の子』のときに、『君の名は。』の批判についてのアンサーであることを意識した、ということを監督が言っていたように思うので、今作もまた、そういった性質はあるのだろう。劇場でもらった入場特典もパンフレットもまだ読んでいないし、情報をシャットアウトしていたこともあって、監督のインタビューなども見ていないけれど、おそらくそこについては何かしらの語りがすでにあると思う。

 が、いや、なんというか、この文章は、映画を見終わった状態で何か言葉が出てくるかな、わからないな、という感じで書いているので、自分でも自分が何を書くのかわからずに書いているのだけれど、とりあえずそういったことは一旦措いておいて映画を見ながら思っていたのは、イスにするってすごいな、ということだった。そこか? 私はそこが書きたいのか?

 前情報では出ていたのだろうが、まさか登場人物のひとりがイスになるとは想像だにしていなかったので、これは本当にかなりびっくりした。知らなくてよかったと思う。物語上の機能として、高校生と大学生が一緒に生身で日本を回るのは、色々と生々しすぎることになるので、イスにしときたいというのは大変よくわかる。わかるし、主人公であるところのすずめが旅立ち、そして旅を続ける動機として機能させたいというのもわかる。

 この物語、発端はすずめさんが扉の封印を解いてしまったことにあるような気もするので、その点では「責任を取る旅」でもあるのかもしれないが(遅かれ早かれ要石は外れてたのだろうが)、イスに任せるのは駄目だよな。だってイスだもんな…! という納得感がとても強い。こんな「全部あいつに任せとけば……ダメだわ! イスだわ!」があるだろうか。

 といったこともあるのだけれど、それ以上に、よかったと思うのが、ラスト付近でイスから見た(イスイス言っていますが草太さんです)これまでの旅のあれこれはねえ、本当によかったと思うんですよねえ。バッグに入ってる姿もかわいかったし、双子に手を焼くすずめを思わず助けてしまうところもよかった。前半の旅、だんだんテンポよくノリよくなっていくイスさんが大好きでした。

 物語のストーリー上の大軸は要石どうするの、というところにあるのだけど、主人公であるところのすずめさんの物語の中心はどこにあったのかなあ、ということを思うと、それはやはり自分がかつて見たもの、その扉、残してきた想いを戸締まりすることにあるのだったが、その「戸締まり」ってなんなんだろうな、というところはまだ全然言葉にならないので、色々人の言葉に触れて考えてみようかなあ、と思うところ。

 「戸締まり」というと、鍵を閉めてしまうような語感もあるけれど、よく考えてみれば、戸の「内」はどこで、誰が「外」にいるのか? ということも不思議に思えてくる。劇中の戸は、現世と常世とをつなぐ戸でもあったけど、戸の中には、すずめの残してきた過去もあった。

 「戸締まり」した扉はまたいつか開いて、それは死への入り口でもあり、誰もがいつか開く入り口なんだけど、ひとまず、この物語でその戸は戸締まりされた。それは、いましばらくは、現世で生きていくことを示すものではあると思うのだけど(なんか封印するときにそんなこと言ってた気もするし)、一方で、その戸締まりの鍵を再び担ってくれたダイジンはなんだったんだろうなあ、とか、そういうことをしばらくは考えます。すずめさんの「好き/ウチの子になる?」という言葉で動いていたダイジンは、この物語に刺さったトゲのようにも思う。