日記を書きながら考えること
日記を書く前に、何を書くかを決めているわけでは必ずしもない。ということを、ここ数年忘れていたような気もするし、憶えていたような気もする。「気もする」というのはいかにも頼もしさのない表現ではあるが、書く前に考えていなかったことが、書くことで、あたかも「前から考えていたこと」のように浮かび上がってくることがある、ということは知っていたはずだ。
今、私は何も考えていない。ということを、「今、私は何も考えていない」と書きながら考えた。なにか、アイデアの発想法に、こういう自動筆記みたいな、思いつくことをそのまま書きましょう、みたいなものがあったと思う。今、「気がする」と書こうとしたのでさすがに、と思って変えました。
ところで、ああいったアイデアの発想法は、『独学大全』が売れて以降、雨後の竹の子のごとく『〇〇大全』として粗製濫造され、猫も杓子も「大全」になってしまったのだが、どうも読んでもあまり自分で使おうというようにはならなかった。
発想法、とか読み方、とかそういったものは大事だと思ってるんだけど、どうも私の場合は、ツールとの組み合わせにならないとそういったものが習慣にはならないようで、単独の「技法」みたいに抽象化して取り出されたものを使おうとしても、結局根付かないようである。
そう考えると、この日記(ブログ)には発想法がセットされているのだろうか。(ちょっと考えて)おそらくそうなのだろう。こうやって書いている文章はSNSに書くものとは違うし、普段誰かに向けて書いているような文章とも違う、長い長い独り言のようなものだ。そういう中でしかできない思考法がある(それは、その思考法の「善し悪し」とは特に関係はない)。
昭和100年、平成37年、令和7年
以前に比べると、あまり元号を意識することがない。というか、世の中で元号を使う機会が減ってもいる。ときどき迷うのが生年月日を病院などで聞かれたときにどう答えるかで、私は西暦で答えるようにしているのだけど、ときおり「元号は?」と言われることがある。一般的にはどちらで記載しているのだろうか。
タイトルのように元号を並べてみるとあまりにも昭和が長いが、しかし、年齢を重ねてくると、100年という時間の長さが、とてつもなく長いようにも、しかし、手が届きうる長さのようにも感じられてくる。50歳になればもう半分に届くわけで、自分の誕生日の年から今の自分の年を引いたときに届く時代が思ったよりも「昔」であることに驚くようにもなってきた。
人は、当たり前だけど、「自分が生まれるより前」をかなり遠くに感じるが、たとえば50年生きているとして時間の濃さは一様ではなく、自分の「若いころ」(10歳~20歳くらい)の長さが、時間としては引き延ばされて記憶されてもいるし、生まれるより前(自我が生まれるより前)は、数年であっても「かなり昔」のように感じられているということをときどき思う。
平成も「レトロ」と言われるようになってきていて、平成も長いのでそりゃ最初のころは完全にレトロなのだが、まだその響きは自分にはぴんとくるものになっていない。平成60年くらいになってもぴんとこないかもしれないのだが(そもそもそこまで生きられるのだろうか)、昭和の最初のあたりに生まれた人もそう思っていた(思っている)のだろうか。
ところで、令和元年=平成31年だったので、令和と平成の下一桁って一致するんですね。
空から地上を見るときに
飛行機に乗るときに、窓際に座るか、それとも通路側に座るかは人によって分かれるところだろう。私は空いていれば窓際を優先して予約する方で、理由としては「早く降りたくないから」というのが一番大きいのだが(通路側にいるとどうしても早めに立たないといけないわけだけど、飛行機を早く降りようとすると並ぶ羽目になるのであまり好きではない)、それ以外に、外を見ることができるから、というのももちろんある。

空から見ると、下の地形がよく見えることがある。人間の目はどこまで遠くを見ることができるんだろうと思うこともあるし、川はこういう風に流れているんだなあ、とか、山裾はこうなってるんだなあ、とか、そういうのだけでも楽しい。
Googleマップやアースでも同じものが見られるといえば見られるのだが、やはり自分の目で実際に見るそれは、写真とは異なる実在感が(当たり前だが)ある。

ときどき思うのは、この景色を100年前の人はほぼ見られなかったわけで、もっと前に遡れば、どんなに権力のある人でも、こういった景色は見ることができなかった。できたとしても気球くらい? でも、そもそも気球っていつごろからあり、どれくらい安定した存在だったのだろう。
最近だとこういうことをすぐにChatGPTに尋ね、色々聞いていくことが増えた。知識が正しいかどうかはともかく、自分の中から湧き上がる疑問を「誰かに(気兼ねなく)聞く」ことってなかなかこれまではできなくて、これもテクノロジーが可能にしたことだとも言える。ちなみに気球による有人飛行は18世紀らしいです。

家で何を飲むか問題
わりと長らく家で何を飲むか、というのは課題ではありました。麦芽豆乳飲んでたんですが、まあカロリーが多いことには気づいていましたよ。ええ。
で、まあちょっとそのあたりを見直していこうということで、夜の時間帯はとうもろこし茶などを増やしているんですが、日中に何を飲むかというのも難しいところ。コーヒーは嫌いではないのですが、あまり何杯も飲むよという感じではなく、お茶は夜に飲むので日中は別のものを飲みたい。外に持ち出すのは水でよいのですが、家だとちょっとは味がほしい。5年ほど前に熱中症になりかけ、その夏はずっと体温調整できなくなったので、もう熱中症になることだけは避けたい。
それで最近選んだのが、無印良品の水に溶かすシリーズ。ソルティライチとソルティアセロラ、ソルティ南高梅です。最後だけ具体的すぎないか。
このシリーズ、500mlに一袋ということになってるんですが、そうするとちょっと濃いめになるので、半分ずつ使ってます。ソルティライチの一杯分がこんな感じなので、この半分。なかなかよいのではないでしょうか。

フタ付のストローが刺さるタンブラーも買ったので、こぼす心配もなく、常に色々飲めるようになりました。この夏はこれで生きていこうと思います。
無料で配られると読まなくなる
JEPA|日本電子出版協会 電子コミック市場崩壊の危機自分が無料のものを読まないのでぴんとこないけど、確かにそういうことはありそうには思う。“過当競争により無料のユーザは増やすことはできたが、今まで有料で読んでいたユーザも無料で読むようになった”
2025/08/02 04:28
こういう話があって、この話に反応している記事も出ていた。分析の確かさについてはわからないけれど、コメントに書いた通り、自分自身が無料のマンガを基本的には読まないのでぴんとは来ていないものの、アプリでマンガを読んでいる人は周囲でも見かけるので、ある程度当たっているところはありそう。要はお金が落ちていないということだ。
考えてみれば、インターネットの記事や無料の新聞記事などは読むのに(新聞は二つほど軽い有料会員ですが)、マンガや書籍については無料のものは読まない。なぜなのだろうか。
無料のマンガには、おそらく「連載のように少しずつ無料で読めるもの」と「単行本の最初のあたりを無料配布するもの」の二つがある。
前者については、もともと連載派ではないため、というところが大きそうだ。単行本でさえ、二巻か三巻積んでおいて、それから読むということが(特にストーリー性の強いものについては)ある。どうもマンガは私の記憶に残りにくいらしく*1、次の巻が出るころには前の巻のことを忘れてしまうからだ。それならば連載で小刻みに読んだ方がよいのでは? というのは、それはそうなのだけど、どうも少しずつ読むというのがマンガに関しては性に合わないようなのだった。
後者については……読まない理由があまりないけど、基本的に単行本は興味を持ったらほぼ買ってるため、「無料配布をきっかけにして興味を持つ」ということがあまりないようだ(自分のことながら)。無料配布をしていようと、あまり興味を持ちそうにないな、と思ったら買っていないということだと思う。
できるだけ、電子書籍にはお金を使おうかなと思ってるんだけど、これからの10年でまた色々状況が変わっていくのかな。Amazonに制圧される未来だけは嫌だなあ。
(最近楽しみにしてるシリーズ↓ )
bookwalker.jp
*1:まったく不思議なことだが、映像は記憶に残る。
おもむろに日記を書く
今年は暑い。というほど、例年に比べてむちゃくちゃに暑いと感じているわけではないのだけれど、「暑くなるのが早かったな」という思いはある。逆に言うと、梅雨がほぼなかったということなのだろう。
去年までとちょっと働き方が変わったところもあり、今年はやけに時間の流れが遅い。ようやく8月に到達したのか、というような気持ち。特に4月と5月はいつまで終わらないんだというくらい長く、7月からようやく普通の長さになってきたなというところがある。
これには、ずっと遅くあってほしい、という気持ちと、こんなに長いのはつらいのではないか? という気持ちがせめぎ合っていて、難しい。時間がない時間がない、という焦りに追われるのも嫌だけど、いつまで経っても時が進まないというのも意外とつらい。そういう気持ちが今年の前半にはあった。
そんなわけで、あと夏が2か月ある(9月は夏とする)ことに、半ば呆然とするような気持ちもあるのだけれど、わりあい8月と9月はあっという間に過ぎていくのかもしれず、このような感覚は今にだけあるものなのかもしれなかった。8月はできるだけ日記を書いてみます。

日記書かなすぎ問題
もはや年末にしか日記を書かなくなっておりますが、違うんだ、そんなつもりじゃないんだと心の中ではいつも思っております。
今年はあまり前に進んでいる感じのしない年ではあり、なにをやったかと言われると仕事はしてはいたのですが、それによって何かが変わる感覚みたいなのはなく、若干ルーティーン的な年だったのかなあ、という感じ。どうしても、これまでの蓄積でなんとかしてしまう、というところが増えているところはあって、それはそれでなんとかなればそれでよいという考え方もあるとは思うのですが、それだと大変ではない代わりに刺激はないので面白くはないということになりやすい。来年はもう少し新しい場所にいく、ということを意識してみたいとは思っています。
趣味としては、2023年後半あたりからVCRをよく見るようになって、それに時間をかなり持っていかれました。VCRというのは、短期間で実施される配信者イベントで、色々なゲームで200人近い人がそれぞれの思惑を持って遊んでいる様子を見ることができるものです。
2022年からやってたんですね。私が気づいたのは2023年でした。
短期間に濃縮されたオンラインゲームの様子が見られる、という点では、これが見たかったオンラインゲームの姿だ、という感じはあり、開催されている期間は結構しっかり見てしまいます。
配信者さんを知らないと面白みは薄れますが、見ていると色々な配信者さんを知ることができるのも魅力のひとつですね。今月行われていたVCR GTA3では、次の切り抜きがお気に入りでした。何度も見ちゃう。
今後も無理のない範囲で追いかけていきたいなあ、というコンテンツでした。
今週のお題「2024こんな年だった・2025こんな年にしたい」