原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

しゃっきりと見える

いい天気だ。

自宅の裏は山になっていて、紅葉した木々が混ざっているのが見える。その葉の一葉一葉がしゃっきりと見えるような気がして、解像度が高いな、と思った。綺麗にエンコードされてるな、でもいい。

現実はエンコードされない、というのはともかくとして、わりと解像度が高く見えるのは、今使っている眼鏡の度がちょうどいいということだ。迫りくる老眼の足音に怯えつつ、視力の低下はたぶんこの20年ほど止まったままで、眼鏡の度は進んでいない。

思い起こすのは小学生のころで、あの時期は近視の進行がとても早いので、眼鏡の度が合っていない時期があった(今と比べると眼鏡はむちゃくちゃ高かった。あれはなんだったんだ)。あるとき眼鏡を更新して、隣の家の庭に生えている竹の解像度がすごく高くなった(だけでなく、世界全体がしゃっきりとした)ことに震えた。もちろん、解像度という言葉はそのころは知らなかったけれど、世界がアップデートされたみたいな、こんなに世界は美しかったのか、みたいな。

もちろん、その解像度も慣れてしまえば感動しなくなってしまうのだが、「見える! 見えるぞ!」という感動は今も心のどこかに残っており、今日みたいに空気が澄んで、しゃっきりとした風景が現れるときにはそのときのことを思い出してしまう。