原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

日記

 どこかのタイミングで日記を書いておこうと思ったのだけど、書きそびれたままにここまで来てしまった。

 2月くらいには油断していて、3月上旬の出張にはいけるのかな、とかのんびり考えていたけれど、それも大事を取ってやめておこうということになり、それでも、なんとなく春になると収まるのではないか、という希望的観測がなかったとは言えない。3月半ばくらいから、あ、これはダメっぽいな、ということに気づき、6月に用意してた大きな仕事を中止することになった。そのころから、だんだんと「これは夏くらいまで続くのかもしれない」と思うようになる。

 4月になり、日々状況が変わる中で、どちらかというと時間の余裕は生まれていて(今の自分の仕事上の立ち位置が幸いしてしまって、楽をしてしまってて申し訳ないという気持ちはあるのだけれど)、気持ちとしてはのんびり過ごしているのだが、次第に「ひょっとして自分も感染するのでは(あるいは感染しているのでは)」という恐怖のようなものが、どうしても心に忍び込んできていることを否定しないわけにはいかない(結構へんぴなところに住んでいるので、周囲での発症はほとんどないのですが)。自分のことも心配だけど、親のことや都会に住んでいる友人のことも心配で、まだときどき満員電車で通勤してるようなので、なんとか通勤しなくてよくなればいいなと、そう思っている。

 今、この時点で少しずつ覚悟が決まりつつあるのは、この状況はそう簡単には終わらない、ということで、夏についてはもうほとんど諦めている。心の中を覗きこんでみると、10月くらいは大丈夫なんじゃないか? と思っているみたいだけど、それも怪しいとも思う。

 仕事の仕方も変わりつつあり、そのことへの対応も進めているけれど、それはそこまで不安ではなくて、でもこれまでと同じようにはいかないだろうとも思う。でも、どちらにしてもそれは付け焼き刃で、その場しのぎのことになるので、この仕方でいけるのは持ちこたえて半年くらいじゃないかな、とも思う。

 「元の世界」というのも仰々しいし、外に見える風景はちっとも変わっていないのだけど、それが戻ってくる、ということが今はまだ実感としてわからない。たとえ、人が再び集まることが可能になったとしても、しばらくは「感染」ということが頭から離れることはないのだろう。アニメーションなどを見ても、「人が集まっていること」に対してかすかに感じる違和感は、もう世界への見方が変わりつつあることを示している(『涼宮ハルヒの消失』をニコニコ生放送で見たのだけど、谷口があごマスクしてることに対して「マスクちゃんとしろ」というコメントが舞ってたのは楽しかった。前ならそういうことを言う人はほとんどいなかったのだろうなと思う)