「語彙力がない」という表現をよく目にする(あるいは耳にする)。
多くの場合、それは、何かに対する感想を述べようとするときに(半ば冗談を含めて)発されるが、耳にするたびにもやもやしていることがあるので、整理しておきたい。それは、「不足しているのは(狭い意味での)語彙力ではないのでは?」と思うことがあるということだ。
もちろん、そもそも「〇〇力」という力の措定それ自体が怪しい、という問題はあるにしても、ひとまず「語彙力」なるものが存在するとして、「語彙力がない」と発される場合、そこには狭義の語彙力と広義の語彙力とが存在しているように思われる。
狭義の語彙力
狭義の語彙力は、文字通り、知っている(使える)語彙の範囲のことだ。たとえば、出現する語句の意味が取れなかったり、漢字が読めなかったりするときに、「語彙力がない」と表現されている場合は、こちらの意味で使われていると思われる。しかし、観察の限り、この使い方はあまり多くない。
広義の語彙力
広義の語彙力は、語彙に限定した話というよりも、対象を説明/表現する力のことを指している。たとえば、食べ物の味を表現する際に、「おいしい/あまい/からい」のようにしか表現できない場合に、「語彙力がない」と表現される。
これが狭義の語彙力と異なると思うのは、単純に「語句を知らない」という問題ではないと思うからだ。食べ物の味であれば、ほとんどの人が持っている語句でも、組み合わせによってある程度細部を表現することはできる(「最初は甘さが来るんだけど、ベースの塩がアクセントになって引き締まった味になってる」、とか)。
この場合、不足しているのは語句の知識ではなく、複数の語句を組み合わせて対象を表現しようとする力(あるいは態度)ということになるだろう。広義の語彙力は、その点で語彙の運用の力のことを指していると思われる。
で、このことをわざわざ整理してみようと思ったのは、どちらも語彙力とするのはいいとしても、何が不足しているかによって、その力をカバーしようとするときに取るべき方法は違うのではないか、と思ったからだ*1。
狭義の語彙力の場合は、それこそ語句の知識だとか漢字の読みだとかを学習する必要がある。未知の語に出会い、それを吸収しないことにはどうしようもないので、接触機会を増やしていくしかないだろう。
広義の語彙力の場合は、「言い回しの模索」が必要になってくると思われる。「おいしい/あまい/からい」で済まさない、ということを意識的にしないと、いつまでも「おいしい/あまい/からい」でしか表現できない、というのはおそらく自明だ(別に「おいしい/あまい/からい」が悪いと言っているのではなく、さらなる表現を求める場合の話です)。
ここを混同すると、広義の語彙力の不足を感じているのに辞書を引くことをがんばってみる、みたいなことになりそう(悪くはないと思うけどたぶん回り道だ)。
「語彙力がない」というのは、冗談が混じっているにしても、対象をうまく表現できない、というもどかしさの表明で、それは、たぶん誰しもが感じていることなんだろうと思う。が、そのもどかしさを「語彙力がない」とぽんと表現してしまうことそれ自体に、広義の語彙力を拡張していく道を閉ざす作用があるのではないかとも思い、たぶん私はもやもやしている*2。