原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

柴崎友香『ガールズファイル』(再録)

 2008年1月。ドキュメンタリー部分は読みにくかった様子(一部編集)。小説の部分はこのとき以来読んでいないので久しぶりに読みたい。

「ちゃうで。ケーキはケーキで、人生は人生やで」

 本書は大きく二部に分かれていて、第一部は「ガールズファイル」として、27人の女性についての報告編、第二部は「毎日、寄り道。」として、小説編になっている。奥付によれば、「毎日、寄り道。」がまず連載され、その後「ガールズファイル」の連載に移行し、現在に至る、という形のようだ。

 で、「ガールズファイル」の方は、端的に言ってつまらなかった。読んでいて、なんとなくしょぼんとしてきて、つらい気持ちになった。なんだか、ここに書かれている女性たちは、みんなそれぞれの経験をしているし、「はじめに」で柴崎さんが書いているように、「十把ひとからげにはできない」存在なのだけど、それでも、みんな同じようにみえてしまう。

 それに対して、「毎日、寄り道。」の方はすばらしくて、これを読んだことで、「ガールズファイル」の苦しさから解き放たれたような感じがした。それは、別に「毎日、寄り道。」に出てくる女性が、「ガールズファイル」に出てくる女性とは全然違っている──とか、そういうことではなくて、小説という文体をとおすことによって吹き抜ける風のちがい、のようなものだろう。──と書くと、あまりに感覚的なので、ちゃんと説明します。

 「ガールズファイル」の文体は、次のようなものだ。

 Gさんは、高校卒業後、外資系カジュアルブランドのお店で販売員として働き始めた。洋服が好きでお店をしたいとずっと思っていたので、学生をするより早く働きたかった。一年ほど働いたあと、念願の洋服店の開店準備を始める。当時Gさんはまだ二十歳! それでも一人で不動産屋を回り、それまで外国に行ったこともなかったのにタイや韓国、アメリカに仕入れにも行った。

 ね、息苦しいでしょ? と言ってもよくわかんないかもしれないのですが、ここには、「脇目」がないと思うんです。ストーリーとしてGさんが語られてしまって、脇目が振られていない。で、「毎日、寄り道。」の方は、うってかわって脇目を振りまくっている。

「でも、そのあともあんまりドラマチックな展開みたいなんないよ。親に挨拶して式までの段取り決めて、どっちかというと淡々と事務的にやってる」
「へえー、そうかあ」
 菜々ちゃんがなにを言ってもわたしも沙也香も聞き入ってしまって、菜々ちゃんはそんなに変わったことじゃないって、とまた困った顔をした。
 パスタを食べてもうおなかはまんぞくしかかったのに、それからメインの魚料理が来て、食べきれないかと思ったけれどおいしいので、話ながらだとそのうちに片付きかかっていた。

 この意識の跳び方は本当に嬉しくて、読んでいて楽しくなる。こういう跳び方は、物思いを引き起こすというか、ふっと小説を読む手を止めて、天井を眺めてぼーっとしたくなるというか、そういう作用があって、ここに、小説がその小説の中だけで完結してしまわないための風が吹きこんでくる風穴が開いていると思うのです。

 「ガールズファイル」の方には、その穴がほとんど開いていなくて、非常に息苦しい。これは、「ガールズファイル」がノンフィクションで、「毎日、寄り道。」がフィクションであるという、そのことによって引き起こされているものではないし、リアリティの有無とかの問題でもないはずだ。

 「毎日、寄り道。」の文体は、いわゆるフィクションにしか使えない、という性質のものではないはずで、「ガールズファイル」の内容を同様に記すこともできたのではないか、と思う(「ガールズファイル」の方が情報の圧縮が激しいので、情報量は減ることになるだろうけれど、しかし、情報量を増やせば人の輪郭があらわになるというわけでもなくて、たとえば水を飲むその仕草をしっかり描くことで人の輪郭が明確になるということがあるはずだ)。「毎日、寄り道。」の文体の中では、「ガールズファイル」に登場する女性たちも、それぞれの存在として、もっと浮き上がってきたのではないか? とか、そういうこと思うのだけど、しかし、柴崎さんがその選択をしなかった──ということにも、なにがしかの意図があると思うので、そのあたりは知りたいな、と思いました。