原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

『花束みたいな恋をした』

 あまりにも色々なところで話題になるので、これは見ておかなければならないのだろうと思って見てきました。うん。色々思った。で、人の感想などを聞く前に自分の感想を保存しておこうと思って、ログに残しておきます。以下、ネタバレ含みます。

 2時間ちょっとの長さの映画なんですが、最初の1時間弱くらいの「主人公の二人が付き合い始めるまで」の話が地獄のようでした。なんというか、古傷をぐりぐり抉られる感じ。二人の出会いは2015年に設定されているんですが、その二人が意気投合するきっかけになっているのが、押井守であり、長嶋有であり、柴崎友香であり、いしいしんじであり……と、「あのころのはてなダイアリー」みたいになってて、感覚的には2010年くらいかな? という気もするのですが、こう、過去の自分を虚構的に見ているようだったのですね。

 別にあのころが黒歴史だとは思ってないのですが、それらを知っていて、読んでいる自分たちは「特別である」という、ほのかな感覚と共犯意識(そして知らない人を馬鹿にしてみせるそぶり)。ミイラ展を楽しみ、2時間以上ガスタンクをひたすら映した映画を面白がることができる自分たち。その、文化を啜る若さのようなものにあてられて、かなりつらかった(悪い意味ではないけど、2度と観たいとは思わない)。語りたくなる映画というのもわかる。

 後半は比較的心安らかに観ることができました。主人公であるところの絹さんと麦くんは、対比として、「学生のころの趣味を保つもの:絹さん」「学生のころの趣味を失っていくもの:麦くん」になっていて、少しずつ生き方がずれていく──というか、最後のあたりで明示されるけど、実際のところは最初からずれていた(絹さんはガスタンクのことを退屈だと思っていたし、麦くんはミイラ展に引いてた)のが、誤魔化せなくなっていった。

 この展開自体は平凡といえば平凡で、そう思うところもないのだけど、ただ、自分の中にも確実に「2000年代の感覚」を振り落としてしまったところがあって、生きていく中で摩耗しているように(ある視点からは)見える麦くんと同じように、あのころ面白がれたものが、もう面白がれないってことって、あるよねえ、とも思った。もちろん、新しく面白がれるものも増えてはいるんだけど、あのころの面白がり方とは、やっぱり違ってくる。そのことへの寂しさ、というのはある。

 この映画、肝心のコンテンツをどう二人が面白がってるのかがよくわからなくて、そこがちょっと残念なんですが(長嶋有をどう読んでたのか知りたいし、宝石の国のどこで泣いたのか知りたい……とも思う)、でも、二人が作ったあの部屋はいいなと思ったんですよね。多摩川のほとりで、古いけど広い部屋を借りて──というのは、まあステレオタイプではあるんだけど、あの部屋は楽しそうだった。特に麦くんの方は、趣味として、かなり絹さんに合わせてたところがあるんじゃないかなあ、とも思ったのですが(そこははっきりとは描かれていない)、でもあの部屋を主導したのはたぶん麦くんなんですよね。

 なんかとっちらかりました。他の人たちがどんな話をしているのか、ラジオで聞くの楽しみ(でありつつちょっと怖い)。

 最後に思うのは、最初のイヤフォンについて注意しようとする二人は、ちょっと違和感あるよね、ということでした。どうやったら、あそこからああなる?

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