原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

半年のこととか

 また半年ほったらかしていた。いつもそうだ。

 この半年で、動画がちょっと編集できるようになった。遊び程度の編集だけど、ただの「切り貼り」から「編集」に進化すると、「できること」の感触がだいぶ変わる。技術的には大したことはないし、誰でもやろうと思えばできるくらいのことなのだが、多くの場合、人は「やろうと思わない」ことも確かなのだと、最近思うことが多い。とすれば、「やろうと思う」ことができること自体が貴重なのだと。

 もちろん、自分自身がなんでも「やろうと思う」ことができるというわけではなく、人は人によって、「やろうと思う」ことができることが違う、ということだ。卓見。いや卓見か?

 もうひとつ変わったことは、わりと配信を見るようになったことで、これは今年の2月からそうなった。これも、「やろうと思」わないとやらなかったことで、とはいえ、それは私の人生にプラスなのか? と自問すると、よくわからない。わからないが、(いつなされるかわからない)配信を待つ、という感じは、あまりない感覚かな、という気はする。これまで触れてきたものは、ある程度定期的に出ることが約束されているものだったり、あるいは、長期的に期待せずに待つ、ようなものばかりだったので。

 ただ、配信をリアルタイムで見ていると、どうも生来的なしゃべりたがりのところが出てしまうようで、コメントしすぎてしまうきらいがあるように感じている。日常生活ではそんなに積極的にしゃべりはしないのだが(職業的な性質によりしゃべらざるをえないので、ある程度はしゃべるが)、どうもたがが外れやすいようだ。

 これはよくないことか? というのはわからないのだが、なんかコメントしすぎたな、という自己嫌悪に陥ることはなくもない。コメントしたい精神みたいなのがうずくのは、ニコニコ動画を結構長いこと見てたからかもしれないな、とも思うが、そうか?

 どういう年齢になっても、結構生活はがらっと変わるもので、そういうのも面白い。