原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

2022年の食生活

2022年の食生活には、これまでの10年の中でも最も劇的な変化がありました。Twitterではさんざん書いていますが、ベースフードを始めたことですね。

ベースフードとは、完全栄養食を謳うパンやクッキー、パスタのことで、ある程度の栄養をこれでカバーできるという夢のディストピアフードです。

basefood.co.jp

4月末くらいにはじめて、およそ9か月。購入履歴を見ると、ここまで10万円分ほど食べた計算。賞味期限がだいたい1か月なので、割安になる定期購入で1か月分購入しています。最近のデッキはこんな感じ。

 ミニ食パン・プレーン 12袋
 ベースブレッド・チョコレート 20袋
 ベースブレッド・メープル 10袋
 ベースブレッド・シナモン 10袋
 ベースクッキー・ココア 4袋
 ベースクッキー・ココナッツ 8袋

これで11500円くらい。1か月単位で食料をローリングストックしていくことになるので、非常食としてもある程度機能しそう。

基本的には昼食を置き換えるところから始めましたが(だいたいチョコレート+メープル or シナモン)、これが結構よかったようで、少しずつ体重が落ちていき、人間ドックの数字が改善しました。ありがとうありがとう。たぶんこれまでの食生活が悪かったんだと思う。

私は、食事に関してはこれと決めたら毎日同じ物を食べてもほとんど苦にならないタイプで、その点で「お昼はこれを食べればいい」と決まったことで楽になったなと感じています。どうも昼をどうしようかを考えなければならないことが微妙なストレスだった模様。

チョコレートはこの12月に改良されて、やわらかもっちり系になり、(個人的には)おいしくなったと思います。前に食べて無理、ってなった人も再挑戦してみてもいいかも。

途中でリリースされた「ミニ食パン」も気に入っていて、こちらは結構夕食として食べています。食パンだから、色々なジャムを試せるのが嬉しい。朝食はずっとグラノーラ生活をしているもので、ジャムを使うシーンがこれまでの生活にはなかったんですね。ミニ食パンのためにトースターも買って、完全に生活自体をベースブレッド用に調えました。

丁寧な暮らしのようなフリをしている究極のずぼら飯

これで完全栄養食に興味を持ったので、日清が展開している完全メシシリーズにも手を出しました。まだ1回しか定期購入していませんが、選べる完全メシ カレー・めん30食セットを、2か月~3か月おきに買って、気が向いた夕食に食べていく予定(毎日ではないです)。

【定期コース】選べる!完全メシ カレー・めん30食セットstore.nissin.com

カレーメシの方はジャンク感は若干少なめ。油そばの方は完全にジャンクな味ですが、ふいに湧き上がる麺類食べたい欲を抑えるのに一役買っています。
とりあえず実験的にこの食生活をもう1年ほど続けてみて、どんな感じか様子を見ていきたいと思います。

2022年の電子書籍

定点観測の電子書籍日記。昨年の記録はこちら。

BOOK☆WALKER:4368冊:2021年購入冊数508冊

で、今年の記録。

BOOK☆WALKER:4809冊:2022年購入冊数441冊

昨年がそこそこ買ってたようで、今年は鈍化。読書スピードは相変わらずゆっくりですが、今年の大きな変化は閲覧端末の導入ですね。
rouble.hatenablog.com
やはり専用端末は専用端末のよさがあり、長期間にわたってじわじわと読む、という読み方で読んだ本がそこそこありました。

この端末で結構読んだのは柞刈湯葉作品。

bookwalker.jp
『重力アルケミック』、KOBOにないみたい。なんで? と思ったら星海社だった。星海社、本当に電子書籍への参入が遅かったの反省してほしい。

作品のそれぞれで味わいが違いますが、どれも、「世界にこういう要素が入ってたらどうなるだろう」というアイデアひとつでガラっと世界が変わる、というのがSF オブ SF という感じで好きです。

『重力アルケミック』とか、大きく派手な物語ではないんだけど、「重素」という重力を司るものが存在していたらどうなる? という世界観の元で、しかし重素が話の中心になるわけではないところがよい。これは『横浜駅SF』のときから同じですね。

マンガとしては、竹葉久美子さんの『テイレシアスの檻』を応援しています。

やや過激な描写もありますが、お決まりの「男女逆転もの」を越えようとする意欲作だと思う。前回の『このなかに石油王がいます』が十分に展開しきる前に終わってしまったので、今回はどうか構想通りに進んでほしい。

あと、放送部マンガ『花は咲く、修羅の如く』はみなさん読んでますか。大丈夫ですか。『まくむすび』のように打ち切られたら悲しみに暮れるので、どうか読んでください。

2022年の動画(配信)生活

年末になると投稿が増える風物詩。

動画(配信)を見る方

2022年のことを振り返ってみると、とにかく動画(配信)を見ていたな、という感じがあり、来年以降がどうなるかはわからないけど、どんな様子だったのかを記録に残しておこうと思います。

もともと動画はニコニコ動画をずっと見ていて(プレミアム会員13年目らしい)、それはほとんどアニメーションとゲーム実況用だったんですが、今年はYouTubeで配信を見ることに目覚めてしまったんですね……。ゲーム配信は2020年末あたりから見てはいたのですが、配信者を追いかけるような見方はしていなかったのが、今年はそこそこ配信者を追いかけるような見方になっていました。

どうも私はコメントしたい欲があり、リアルタイムに見ると、コメントできるのが楽しい。楽しいが……

  • 自己顕示欲が出てしまっている感じがあって、ときどきへこむ
  • コメントしようとするあまり配信に集中しすぎることがあり、作業が進まない
  • 別の予定を組むときに、配信があるかどうかを気にしてしまう

あたりは副作用かなというところ。

ちょっと解毒しとかないと時間を食い潰したあげく何も残らない、ということになりかねないので、バランスを取っていきたい。

動画を作る方

今年は動画を作る、ということもやってみました。

人に見てもらう、というよりは、自分の思い出を残す、という役割が大きいけど面白かった。ただ、これも時間がかなりかかる。動画がどんな風に作られ、どんな風に投稿されるか、ということを今さらながらに理解できたのはよかったなと思います。いざとなったら(どういざとなるかはよくわからないが)動画が作れる、という選択肢が増えたのもよかった。

ゲームとしてはスプラトゥーン3を後半はわりとやったわけですけど、2の初期にどんなプレイしてたかとかは記憶からかなり消えてるんですよね。動画にしておけば、それをいつか振り返ることができる。時間はかかるけど、ほそぼそ続けていければいいなと思っています。

「語彙力がない」考

「語彙力がない」という表現をよく目にする(あるいは耳にする)。

多くの場合、それは、何かに対する感想を述べようとするときに(半ば冗談を含めて)発されるが、耳にするたびにもやもやしていることがあるので、整理しておきたい。それは、「不足しているのは(狭い意味での)語彙力ではないのでは?」と思うことがあるということだ。

もちろん、そもそも「〇〇力」という力の措定それ自体が怪しい、という問題はあるにしても、ひとまず「語彙力」なるものが存在するとして、「語彙力がない」と発される場合、そこには狭義の語彙力と広義の語彙力とが存在しているように思われる。

狭義の語彙力

狭義の語彙力は、文字通り、知っている(使える)語彙の範囲のことだ。たとえば、出現する語句の意味が取れなかったり、漢字が読めなかったりするときに、「語彙力がない」と表現されている場合は、こちらの意味で使われていると思われる。しかし、観察の限り、この使い方はあまり多くない。

広義の語彙力

広義の語彙力は、語彙に限定した話というよりも、対象を説明/表現する力のことを指している。たとえば、食べ物の味を表現する際に、「おいしい/あまい/からい」のようにしか表現できない場合に、「語彙力がない」と表現される。


これが狭義の語彙力と異なると思うのは、単純に「語句を知らない」という問題ではないと思うからだ。食べ物の味であれば、ほとんどの人が持っている語句でも、組み合わせによってある程度細部を表現することはできる(「最初は甘さが来るんだけど、ベースの塩がアクセントになって引き締まった味になってる」、とか)。

この場合、不足しているのは語句の知識ではなく、複数の語句を組み合わせて対象を表現しようとする力(あるいは態度)ということになるだろう。広義の語彙力は、その点で語彙の運用の力のことを指していると思われる。

で、このことをわざわざ整理してみようと思ったのは、どちらも語彙力とするのはいいとしても、何が不足しているかによって、その力をカバーしようとするときに取るべき方法は違うのではないか、と思ったからだ*1

狭義の語彙力の場合は、それこそ語句の知識だとか漢字の読みだとかを学習する必要がある。未知の語に出会い、それを吸収しないことにはどうしようもないので、接触機会を増やしていくしかないだろう。

広義の語彙力の場合は、「言い回しの模索」が必要になってくると思われる。「おいしい/あまい/からい」で済まさない、ということを意識的にしないと、いつまでも「おいしい/あまい/からい」でしか表現できない、というのはおそらく自明だ(別に「おいしい/あまい/からい」が悪いと言っているのではなく、さらなる表現を求める場合の話です)。

ここを混同すると、広義の語彙力の不足を感じているのに辞書を引くことをがんばってみる、みたいなことになりそう(悪くはないと思うけどたぶん回り道だ)。

「語彙力がない」というのは、冗談が混じっているにしても、対象をうまく表現できない、というもどかしさの表明で、それは、たぶん誰しもが感じていることなんだろうと思う。が、そのもどかしさを「語彙力がない」とぽんと表現してしまうことそれ自体に、広義の語彙力を拡張していく道を閉ざす作用があるのではないかとも思い、たぶん私はもやもやしている*2

*1:実際には冗談として発されることも多いので、本気で不足を感じて力をつけなければ、と思ってる人は少数派だと思うけれど。

*2:実際には、「語彙力がない」と嘆く人に、結構な割合で別にそうでもないんじゃないかなと思う人が混ざっているけど。

2022年、12月、雨のち雪

冬が来るたびに、冬ってこういう感じだったっけ、と思っている。思ったよりも下がらない気温とか、かと思えば一気に下がる気温とか、突然降っては積もる雪だとか。

12月の半ばに雪が積もるのは珍しい……はずだ。たぶん。これも曖昧な記憶ではあるけれど、と書いている中に、そういえばいつだったか、12月半ばに山の中に出張したときには雪が積もって焦ったな、という記憶が蘇ってきた。書いてみるものだ。

雪が降ると嫌なことを記録しておく。

  • 自転車に乗れなくなる
  • 結果として、バスを使うか歩くかしかなくなる
  • バスは雪の日は遅延しがち
  • 長靴を履いて歩こう
  • 筋肉痛になった

自転車というのは覿面に雪に弱く、積もられるとどうしようもない。車道はわりかし雪が溶けやすく、また、車であれば多少の雪でも走れるのだが、自転車が走ることになる車道のはしっこは雪がたまりやすく(下手すると「除雪」によって山盛りの雪が盛られることすらある)、溶けるまでは乗れなくなる。

バスはバスで遅延しやすく、しかし最近のバスはGPSで居場所がわかるのでどれくらい遅延するかが表示されるのでいいのだが、それに油断していると、突然到着予想時間がみるみる早くなっていき、「待ってまだ来ないで」と言っているうちに見送る、とかもありがちだ。わかっている。早く出ればいいのだけど、だって早く出たら寒いじゃない。

雪が災害クラスに積もっている土地に比べれば、この土地の雪なんてちょっとした困りもの程度なんだけど、非日常に心は揺れる。「わあ、雪だ」みたいな心持ちが完全になくなったわけではないし、これはこれで風物詩だと思ってるんだけど、現実としては困る、みたいなところ。

とはいえ、雪が降ったら庭にかまくらができていたりとか、雪だるまがあちこちに立っていたりとかで、誰かがはしゃいだあとが見えるのは悪くないとも思っている。

しゃっきりと見える

いい天気だ。

自宅の裏は山になっていて、紅葉した木々が混ざっているのが見える。その葉の一葉一葉がしゃっきりと見えるような気がして、解像度が高いな、と思った。綺麗にエンコードされてるな、でもいい。

現実はエンコードされない、というのはともかくとして、わりと解像度が高く見えるのは、今使っている眼鏡の度がちょうどいいということだ。迫りくる老眼の足音に怯えつつ、視力の低下はたぶんこの20年ほど止まったままで、眼鏡の度は進んでいない。

思い起こすのは小学生のころで、あの時期は近視の進行がとても早いので、眼鏡の度が合っていない時期があった(今と比べると眼鏡はむちゃくちゃ高かった。あれはなんだったんだ)。あるとき眼鏡を更新して、隣の家の庭に生えている竹の解像度がすごく高くなった(だけでなく、世界全体がしゃっきりとした)ことに震えた。もちろん、解像度という言葉はそのころは知らなかったけれど、世界がアップデートされたみたいな、こんなに世界は美しかったのか、みたいな。

もちろん、その解像度も慣れてしまえば感動しなくなってしまうのだが、「見える! 見えるぞ!」という感動は今も心のどこかに残っており、今日みたいに空気が澄んで、しゃっきりとした風景が現れるときにはそのときのことを思い出してしまう。

『すずめの戸締まり』

 『すずめの戸締まり』を見てきました。

 平日夜、複数のスクリーンで重なる時間帯に上映されていることから、お客さんはごくまばら。自分が座っている列に人は座っておらず、私より前に人影はなし。私は、基本的に人が少ない映画館が好きですが(経営的には心配になるけれども)、この映画は、視界の範囲に人がいない状態で見てよかった、となんとなく思う。

 『君の名は。』『天気の子』『すずめの戸締まり』は、ひょっとすると三部作と呼ばれることになるのかもしれない──というのは、このあとに続く作品の方向性にもよるけれど、いずれも災害が映画の中に色濃く存在する点が意識的だと思われるからだ。『天気の子』のときに、『君の名は。』の批判についてのアンサーであることを意識した、ということを監督が言っていたように思うので、今作もまた、そういった性質はあるのだろう。劇場でもらった入場特典もパンフレットもまだ読んでいないし、情報をシャットアウトしていたこともあって、監督のインタビューなども見ていないけれど、おそらくそこについては何かしらの語りがすでにあると思う。

 が、いや、なんというか、この文章は、映画を見終わった状態で何か言葉が出てくるかな、わからないな、という感じで書いているので、自分でも自分が何を書くのかわからずに書いているのだけれど、とりあえずそういったことは一旦措いておいて映画を見ながら思っていたのは、イスにするってすごいな、ということだった。そこか? 私はそこが書きたいのか?

 前情報では出ていたのだろうが、まさか登場人物のひとりがイスになるとは想像だにしていなかったので、これは本当にかなりびっくりした。知らなくてよかったと思う。物語上の機能として、高校生と大学生が一緒に生身で日本を回るのは、色々と生々しすぎることになるので、イスにしときたいというのは大変よくわかる。わかるし、主人公であるところのすずめが旅立ち、そして旅を続ける動機として機能させたいというのもわかる。

 この物語、発端はすずめさんが扉の封印を解いてしまったことにあるような気もするので、その点では「責任を取る旅」でもあるのかもしれないが(遅かれ早かれ要石は外れてたのだろうが)、イスに任せるのは駄目だよな。だってイスだもんな…! という納得感がとても強い。こんな「全部あいつに任せとけば……ダメだわ! イスだわ!」があるだろうか。

 といったこともあるのだけれど、それ以上に、よかったと思うのが、ラスト付近でイスから見た(イスイス言っていますが草太さんです)これまでの旅のあれこれはねえ、本当によかったと思うんですよねえ。バッグに入ってる姿もかわいかったし、双子に手を焼くすずめを思わず助けてしまうところもよかった。前半の旅、だんだんテンポよくノリよくなっていくイスさんが大好きでした。

 物語のストーリー上の大軸は要石どうするの、というところにあるのだけど、主人公であるところのすずめさんの物語の中心はどこにあったのかなあ、ということを思うと、それはやはり自分がかつて見たもの、その扉、残してきた想いを戸締まりすることにあるのだったが、その「戸締まり」ってなんなんだろうな、というところはまだ全然言葉にならないので、色々人の言葉に触れて考えてみようかなあ、と思うところ。

 「戸締まり」というと、鍵を閉めてしまうような語感もあるけれど、よく考えてみれば、戸の「内」はどこで、誰が「外」にいるのか? ということも不思議に思えてくる。劇中の戸は、現世と常世とをつなぐ戸でもあったけど、戸の中には、すずめの残してきた過去もあった。

 「戸締まり」した扉はまたいつか開いて、それは死への入り口でもあり、誰もがいつか開く入り口なんだけど、ひとまず、この物語でその戸は戸締まりされた。それは、いましばらくは、現世で生きていくことを示すものではあると思うのだけど(なんか封印するときにそんなこと言ってた気もするし)、一方で、その戸締まりの鍵を再び担ってくれたダイジンはなんだったんだろうなあ、とか、そういうことをしばらくは考えます。すずめさんの「好き/ウチの子になる?」という言葉で動いていたダイジンは、この物語に刺さったトゲのようにも思う。