原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

死の夢

 ときどき、自分が死ぬ夢をみる──というのは、誰にでもあることなのかわからないけれど、特別特異な体験というのでもないだろう。私はたいがい「銃で撃たれる」というのが多くて、あまり他の死に方を知らない。というか、病気で死ぬ、という物語を語れるほど夢は長いスパンの構造を持たないような気もする、が、中にはそういう夢をみる人もいるのかもしれない。
 「銃で撃たれる」というのは、日常生活にはあまりないシチュエーションなのでリアリティが曖昧なところがあって、大概の場合、撃たれたことによって痛みを感じる、というよりは、身体の力が抜ける(=もう喋れなくなる)、という形で死はやってくる。日常的にない死の到来の仕方が、夢の中で採用されるというのは不思議な話だ。
 思うに、様々なフィクションなどの中で繰り返し「銃で撃たれる」構図をみてきていることにも遠因はあると思うのだけど、それ以上に、「突然やってくる」死の形が、どこか理不尽さを持つ「銃撃」という形で表現されている、ということでもあるのかもしれない。遠くから、少なくとも能動的にはほとんど避けようがないと思われる銃撃は、それ自体が、なんとなくぼんやりと抱いている「死」の姿に見合うのだろう。
 夢の中で何度となく死んでいくことが死の予行演習になるとは到底思えないのだけど、しかし、生きている人はみな死の実際を知らない。死の夢には、死の尻尾くらいは存在してるのだろうか。