原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

2020年のこと

 2020年が終わる。この1年のことを、一生の中でどのように思い出すことになるかはわからない。印象的な1年として思い出すのか、それとも、意外とそうでもなく忘れていくのか。いつもどおりではない1年ではあった。けど、どの1年も「いつもどおり」ではない、とも言える。

 年末の今、帰省できずに思うのは、意外と「1人で年末年始を迎えたことがなかった」んだな、ということで、別にそれは今年は孤独とかそういうことでもなく、しかし、なんとなく地に足がついていないような感触がある。年末の空気に触れず、年始の空気にも明確には触れられないんだろうな、という感じ。

 「誰か」と時間を共有することで、これまではそれを感じていたのだろうけど、その「誰か」がいないと、本来的にはフィクションである年末/年始という境目は実在感を失うのだろう(その実在感をつなぎ止めるために「おせち料理」や「年賀状」や「お雑煮」や「年越しそば」があるのだとも思う。そばはこれから食べます)。

 この1年、人とあまり会うことがなかった。もちろん、職場での接触はあるものの、例年に比べれば体感的には1/5くらいだろうか。一方で、ネットを介した仕事上のやり取りは増大した。Slackなどで交わした言葉は、例年の比ではなく、雑談もたくさんした。例年はこんなに人(互いに顔を知っている知人)と雑談はしていない。このような状況になったことで、それぞれが雑談を求めた、ということもあるだろう。これは楽しいことだったと思う。

 もともと、それほど人と顔をつきあわせて話す、ということが好きというわけでもないので(どちらかといえば億劫)、この1年は、出張もなくなり、自由が飛躍的に増大した過ごしやすい1年だったとは言える。だが、それはインフラを支えている多くの人たちの困難に支えられている快適さで、これが続けばいいとは、やはり思えない。

 この状況が「すぐに終わる」とはもう考えなくなっていて(今年の4月ぐらいはまさか1年続かないだろうと思ってたような記憶もある)、下手すると来年1年もこんな感じなのかもしれないとも思うし、いやさすがにそれはないのではないか、とも思っている。これは来年答え合わせをしたい。

 年齢を重ねていくと、次第に自分の「死」のことを考える。今年も多くの訃報に接し、そのたびに自分のことを考えないわけでもない(特に何かあるわけではないです)。前より死ぬのが怖いな、と思っているようでもあるし、残りの人生の年月がどれくらいあるのか(それはもちろん予測できないんだけど)、ということも考える。

 今年は日記を残そう残そうと思いつつ、いつになく残せていないので、うーん、やっぱり今年も来年はもう少し日記を書きたいな、と思いながら、年を越していきます。