原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

ほっけで学ぶ言語獲得

 “ほっけ”という食べ物がある。と書くと、違和感を持たれる方も多いと思うのだけど、私にはそんなに違和感がなくて、つまり私は“ほっけ”という言葉の習得を間違っている。正確には、“間違った”ことが修正できずに現在に至る──というわけなのだけど、ようするに私は“ほっけ”を料理の名前だと思っていた。あの、なんか開きにしたものを焼いたものが“ほっけ”だと思っていたのだ。
 あじの“ほっけ”とかがあると思っていたあのころ。いや、だって、メニューに“ほっけ”しか書いてないことも多いじゃん! メニューに「鮭」とか「イカ」とか書いてあったら、「いや、それってどういう状態なのよ」ってみんなつっこむだろう。それが“ほっけ”に関しては看過されていることに異議を申し上げたい。
 そういうわけで、その誤った言語獲得からの回復が現在まで十分には達成されていない私は、知識としては“ほっけ=魚の種類の名前”ということを知っているのだけど、感覚的には理解できていなくて、これはたぶんかなり長い間引きずることになるのだろう。“外科”を“がいか”と読む癖も、延々と抜けなくて、“外科”という文字をみれば「がいか……ちがう、げかだ」と思い直している始末だ。
 ところで話を“ほっけ”に戻すと、これはよくよく考えてみると、人の言語獲得のシステムから考えれば、しごくもっともな反応だったように思える。どういうことかというと、人は言語獲得をする際に、未知の名詞に対し、できるだけ一般的な(しかし抽象的すぎない)カテゴリーでそれをマッピングするということだ。
 犬的な動物(たとえばチワワ)を見せられて、「これは犬だよ」と教えられれば、人は基本的には「こいつの名前、犬っていうのか!」みたいに固有名詞で理解することはないし、かといって「じゃあ、あのでっかいやつは犬じゃないな」とドーベルマンをみて言ったりもしない。「犬的カテゴリー」を示す言葉として、わりあいすんなり習得してしまうのが人の不思議なところなのだけど、そう考えれば、“ほっけ”と言われれば、まさかそれが素材の魚の名前とは思わないという私の言語習得はきわめて自然なものだ。
 私はすでに“魚”という分類は知っていたのだから、そこに“ほっけ”なる未知の語を持って、あの開きにされた状態の料理を見せられれば(それも繰り返し繰り返し“ほっけ”と言えばあれしか出てこない!)、カテゴリーとしては料理の名前と勘違いするのは自明のことであって、むしろ世界があの魚料理を“ほっけ”とのみ呼んでいることがおかしい。
 ……という与太話を、本を読みながらずっと思っていたのでした。実は説明に無理がある気がしている。