原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

お正月に死を思う

 何度も同じことを書いているような気がするけれど、私にとって、1年の中で、もっとも死を思うのがお正月だ。

 誕生日もそうだが、1年を更新していく、重ねていくという過程は死への道行きではある。だが、そのこと以上に、普段住んでいるところを離れて、地元に戻るというのがやはり大きいのだろう。

 年々歳を重ねていくと、色々な人に「あと何度会えるのだろうか」ということを思う。10代で一人暮らしを始めたころに、「これから親と過ごす時間の総時間は、これまで生きていた時間を超えることはない(だろう)」と思った。いや、介護とかを考えれば、そうとも限らないわけだけど、そのときにはそういったことには考えは至らなかった。だから、人生に無限の時間があると思っていたわけではないのだが、しかし、それでも、まだまだ時間は呆れるほどにあると思っていたのも事実だ。

 自分に残された「残り時間」のことを漠然と考える。それがどれくらいあるかは誰にもわからない。明日で尽きるのかもしれないし、20年くらいは大丈夫かもしれない。しかし保証はない。そのことが、毎年毎年、少しずつ怖くなる。特に、この2年はそうだったと言ってもいい。

 一方で、死の前に立ちすくんでいても仕方がないので、普段はそのことを極力考えないようにして生きている。ある意味において、現実から遊離して生きているのが普段の私なのだけど、お正月というのは、現実に引き戻されるような時間だ(実際には、もちろん普段もまた現実なのだけど)。

 いつまでもあるような地元も変わっていくし、家族についてもそれは変わらない。

 ついさっき、親しい家族に何か痛ましいことがあった人のツイートを見た。亡くなった方の、あるいは、何かの事情でツイートが途切れざるを得ない状況にある人のツイートを遡って読んでしまうことがある。ツイートに途切れる予兆がある人もいるし、あるときばっさりと、切り落とされたようにツイートが止まる人もいる。その様子は、こういったSNSが広がるまではなかなか目に見えなかったことだ。

 身近な人には(あるいは誰もが)、平穏に生きていてほしい。そういった祈りを普段の私はわりと忘れてしまっているけれど、でも、ときどき怖くなる。今日の帰り道に、宗教というのは、そういう祈りの受け皿なんだなという当たり前のことを思った。

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帰省中の海
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これはまったく関係なく年末に食べたパフェ