“鬼っ子”と呼ばれる通り、主人公は途中で“取り替え子(チェンジリング)”であることがわかっていきます。彼は異界に出入りするようになり、そこで“本来生まれるはずだった”本当の子どもに出会う。最終的に彼は異界と決別し、この世に生きていくことになるのですが、それはありえたもうひとりの自分との別れも意味していました。
最初に『つづきはまた明日』とトーンが異なる、と書いたのですけれど、物語としてのトーンは異なりますが、基層に流れているどことはない“眠たくなるような甘さ”は、淡い絵柄が共通していることもあってか、同じものを感じます。“眠たくなるような甘さ”は別に悪い意味で言うのではなくて、夢の中にいるような(あるいは何かにくるまれているような)感触があるということです。
『カナシカナシカ』においては、それはまさに半分異界に属している主人公の“地に足のついていない感じ”を表しているし、『つづきはまた明日』では、兄弟の(すでに亡くなっている)母親が、彼らに向けている(た)視線に同期しているようにも思います。『つづきはまた明日』というタイトルそのものも、また当たり前のように明日が来る、という意味であると同時に、「また明日が来ますように」という、甘い願いのようなものになっている。
この作品に出会う年齢や、死(とそれが導く、“ここではない世界”)への郷愁の度合いによって、感じ方が大きく異なる物語になのではないかと思いました。