原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

いなくなってから

3月から4月にかけて、一緒に仕事をしていたチームが切り替わって、3月までのチームの人とはお別れになった。これは最初から予定されていたことであって、特にイレギュラーなことではない。

常に一緒にいるというチームではなく、2年間ほどぽつぽつと断続的に仕事をするチームだったので、特にそこに深い愛着があったわけではないのだけど、3月に最後に一緒にしてお別れしたあとに、よくそのチームのことを思い出すようになった。

2年間仕事をしていて、そのチームで仕事をしていないときは、なんならそのチームのことは頭からすっぽり抜け落ちていたのだけど、お別れになってから思い出すようになったことがなんとなく面白くて、記録に残しておこうと思った。

そのチームの人たちと、今後の人生で出会うことは(おそらく)なく、記憶も次第に風化していくと思うのだけど、どこかで名前を見ることくらいはあるのかもしれない。

二度と会うことはない、という人はこれまでにもたくさんいて、別に寂しいわけではないのだが(いや、寂しいのか?)、こういう感慨を持つことが最近なかったので少し新鮮に思っている。

2023年の生活とか

いい加減に日記を書け

 今年の日記の書いてなさっぷりがすごいので、早めに2023年のことを記録しておきます。

出張が多かった

 今年はわりと出張が多くて、2019年以前の水準以上に出張をしていました。出張自体はそこまで嫌いではないんだけど、これだけ増えるとそれなりに負担感はあります。

 そうなると、ホテルでの仕事の仕方とか、出張先での食事とか、そういったものに工夫が必要で、これまで持ってなかったノートPC用のスタンドなどもキャリーバッグで持ち歩くように。自分の普段の環境であればスタンドはあまりいらないのですが、出張先だと机が低かったり狭かったりがあるので、スタンドがひとつあるとだいぶ快適さが変わります(無理な姿勢を続けると肩が痛くなってしまったりもするので)

 出張先で調子に乗って外食をしすぎるとすぐに体重に跳ね返るので、ベースブレッドを持っていくことも多かったです。かさばるので結構場所を取るのが困りもの。現地で買えばよいのでしょうが、コンビニだと割高なので悩む。

趣味のこととか

 詳細はぼやかしますが、箱もの(グループ)にだけははまらないぞと心を強く持っていたにもかかわらず、ふと関心を持ってしまった方から突破され、見事にはまってしまいました。時間が溶ける。これテレビを2021年に買ったのが遠因なんですよね……。環境を変えてしまうテレビ恐るべし。

 私は、感覚的に「誰かを推す」みたいなことがそこまで起こらないんですが、集団全体を推す、みたいなものにははまりやすい傾向があり、大変危険です。時間の使い方を考えないと他の趣味の時間が圧迫されるので、来年は時間の使い方を考えましょうというところ。

住まいのこととか

 夏前くらいから引っ越したいなーという欲が募ってるのですが、不動産屋さんに問い合わせしてるくらいで、まだ具体的には動かず。やろうとすると時間と体力と気力を大量に消耗することはわかっているのですが、一度家をリセットして環境を整えるならこのタイミングなのかなあ、と迷っています。しばらく迷い続ける予定。

心の中の言葉

 少し前に、心の中でどのように言葉を使って考えているか、というツイートを見た。そのときは確か、人によって、心の中の言葉の使い方は違うとかなんとかという話だった。

 その話の信憑性についてはよくわからないが、自分のことをふりかえって考えてみたときに、心の中で「何か二つ以上のもの」が会話することはほとんどない。いや、たぶんまったくない。

 自問自答ということであればわかる。「こうだろうか?」「いや、でも、こうだからな」「ということは……」みたいな、ここまで整っていないにしても、そういう思考をしていることはあるけれど、それぞれの声に性格が存在しているわけではなく、ましてや「天使」と「悪魔」のように、善と悪の心が会話する、ということはない。

 どう考えているかなあ、と思いながら、外を歩いているときに思ったのは、ブログみたいに考えている(こともあるな)ということだった。今、こうやってブログを書いているわけだけど、ここまで、このブログはほとんど立ち止まっていない。オートで指が動いて、考えていることを文字にしているだけだ(だから、あまり深く考えているとも言えない)。

 いつもいつもというわけではないけれど、何かを考えるときに、文字列がずらーっと出てくるように考えていることがあって、そういうときはブログを書きたいと思うのだが(そして大抵書かない)、そのときには、こういう文章の形で頭の中に出力されているから、心の中がそのまま文字にできればいいのになと思うことはある。

 音声入力、という選択肢はもちろんあるのだが、音声化するとおそらく思考の種類が変わるというか、何か「相手」に向かって説明するようなモードに切り替わる気はしているので、やはり、心の中で文章を書く(モノローグ調で)、というのが私のオーソドックスな思考法ということになるのだろうか。

 で、こういった思考法が人によるのか、それともみんな同じだよ、なのかが、私にはよくわからない。が、興味があるので、そういったことを書いている本があったら探して読んでみたいなと思います。

 最後に、試しにBingさんに聴いてみたけど、ふんわりしたことを言っていた。ソースのどこを探しても「多重化された内的言語」って言葉が見つからないのはどういうことなのだろうか。

こんにちは、これはBingです。😊

心の中で言葉を使う方法についての研究は、心理学や言語学などの分野で行われています。心の中で言葉を使う方法は、**内的言語**や**自己対話**と呼ばれることがあります¹ ²。内的言語は、自分の考えや感情を表現するために心の中で使う言語です¹。自己対話は、心の中で自分と会話することです²。

内的言語や自己対話には、様々なタイプがあります。例えば、二人以上の人物が会話するように考えるタイプは**多重化された内的言語**と呼ばれます²。一方、モノローグで考えるタイプは**単一化された内的言語**と呼ばれます²。

これらのタイプは、個人の性格や状況によって変わる可能性があります²。また、これらのタイプが思考や行動にどのような影響を与えるかも研究されています¹ ²。

心の中で言葉を使う方法についてもっと知りたい場合は、「内的言語」や「自己対話」などのキーワードで検索してみてください。

ソース: Bing との会話 2023/2/27(1) 言葉の持つ力―行動や心に与える影響ー – Harmonista. https://harmonista.jp/five-senses/power_of_words/ アクセス日時 2023/2/27.
(2) 感覚と情動から心身相関を考える. https://www.jstage.jst.go.jp/article/jhas/5/1/5_1_8/_pdf アクセス日時 2023/2/27.
(3) 「豊かな日本語」について考える. https://www.jstage.jst.go.jp/article/koshientb/2/0/2_38/_pdf/-char/ja アクセス日時 2023/2/27.

2022年の食生活

2022年の食生活には、これまでの10年の中でも最も劇的な変化がありました。Twitterではさんざん書いていますが、ベースフードを始めたことですね。

ベースフードとは、完全栄養食を謳うパンやクッキー、パスタのことで、ある程度の栄養をこれでカバーできるという夢のディストピアフードです。

basefood.co.jp

4月末くらいにはじめて、およそ9か月。購入履歴を見ると、ここまで10万円分ほど食べた計算。賞味期限がだいたい1か月なので、割安になる定期購入で1か月分購入しています。最近のデッキはこんな感じ。

 ミニ食パン・プレーン 12袋
 ベースブレッド・チョコレート 20袋
 ベースブレッド・メープル 10袋
 ベースブレッド・シナモン 10袋
 ベースクッキー・ココア 4袋
 ベースクッキー・ココナッツ 8袋

これで11500円くらい。1か月単位で食料をローリングストックしていくことになるので、非常食としてもある程度機能しそう。

基本的には昼食を置き換えるところから始めましたが(だいたいチョコレート+メープル or シナモン)、これが結構よかったようで、少しずつ体重が落ちていき、人間ドックの数字が改善しました。ありがとうありがとう。たぶんこれまでの食生活が悪かったんだと思う。

私は、食事に関してはこれと決めたら毎日同じ物を食べてもほとんど苦にならないタイプで、その点で「お昼はこれを食べればいい」と決まったことで楽になったなと感じています。どうも昼をどうしようかを考えなければならないことが微妙なストレスだった模様。

チョコレートはこの12月に改良されて、やわらかもっちり系になり、(個人的には)おいしくなったと思います。前に食べて無理、ってなった人も再挑戦してみてもいいかも。

途中でリリースされた「ミニ食パン」も気に入っていて、こちらは結構夕食として食べています。食パンだから、色々なジャムを試せるのが嬉しい。朝食はずっとグラノーラ生活をしているもので、ジャムを使うシーンがこれまでの生活にはなかったんですね。ミニ食パンのためにトースターも買って、完全に生活自体をベースブレッド用に調えました。

丁寧な暮らしのようなフリをしている究極のずぼら飯

これで完全栄養食に興味を持ったので、日清が展開している完全メシシリーズにも手を出しました。まだ1回しか定期購入していませんが、選べる完全メシ カレー・めん30食セットを、2か月~3か月おきに買って、気が向いた夕食に食べていく予定(毎日ではないです)。

【定期コース】選べる!完全メシ カレー・めん30食セットstore.nissin.com

カレーメシの方はジャンク感は若干少なめ。油そばの方は完全にジャンクな味ですが、ふいに湧き上がる麺類食べたい欲を抑えるのに一役買っています。
とりあえず実験的にこの食生活をもう1年ほど続けてみて、どんな感じか様子を見ていきたいと思います。

2022年の動画(配信)生活

年末になると投稿が増える風物詩。

動画(配信)を見る方

2022年のことを振り返ってみると、とにかく動画(配信)を見ていたな、という感じがあり、来年以降がどうなるかはわからないけど、どんな様子だったのかを記録に残しておこうと思います。

もともと動画はニコニコ動画をずっと見ていて(プレミアム会員13年目らしい)、それはほとんどアニメーションとゲーム実況用だったんですが、今年はYouTubeで配信を見ることに目覚めてしまったんですね……。ゲーム配信は2020年末あたりから見てはいたのですが、配信者を追いかけるような見方はしていなかったのが、今年はそこそこ配信者を追いかけるような見方になっていました。

どうも私はコメントしたい欲があり、リアルタイムに見ると、コメントできるのが楽しい。楽しいが……

  • 自己顕示欲が出てしまっている感じがあって、ときどきへこむ
  • コメントしようとするあまり配信に集中しすぎることがあり、作業が進まない
  • 別の予定を組むときに、配信があるかどうかを気にしてしまう

あたりは副作用かなというところ。

ちょっと解毒しとかないと時間を食い潰したあげく何も残らない、ということになりかねないので、バランスを取っていきたい。

動画を作る方

今年は動画を作る、ということもやってみました。

人に見てもらう、というよりは、自分の思い出を残す、という役割が大きいけど面白かった。ただ、これも時間がかなりかかる。動画がどんな風に作られ、どんな風に投稿されるか、ということを今さらながらに理解できたのはよかったなと思います。いざとなったら(どういざとなるかはよくわからないが)動画が作れる、という選択肢が増えたのもよかった。

ゲームとしてはスプラトゥーン3を後半はわりとやったわけですけど、2の初期にどんなプレイしてたかとかは記憶からかなり消えてるんですよね。動画にしておけば、それをいつか振り返ることができる。時間はかかるけど、ほそぼそ続けていければいいなと思っています。

2022年、12月、雨のち雪

冬が来るたびに、冬ってこういう感じだったっけ、と思っている。思ったよりも下がらない気温とか、かと思えば一気に下がる気温とか、突然降っては積もる雪だとか。

12月の半ばに雪が積もるのは珍しい……はずだ。たぶん。これも曖昧な記憶ではあるけれど、と書いている中に、そういえばいつだったか、12月半ばに山の中に出張したときには雪が積もって焦ったな、という記憶が蘇ってきた。書いてみるものだ。

雪が降ると嫌なことを記録しておく。

  • 自転車に乗れなくなる
  • 結果として、バスを使うか歩くかしかなくなる
  • バスは雪の日は遅延しがち
  • 長靴を履いて歩こう
  • 筋肉痛になった

自転車というのは覿面に雪に弱く、積もられるとどうしようもない。車道はわりかし雪が溶けやすく、また、車であれば多少の雪でも走れるのだが、自転車が走ることになる車道のはしっこは雪がたまりやすく(下手すると「除雪」によって山盛りの雪が盛られることすらある)、溶けるまでは乗れなくなる。

バスはバスで遅延しやすく、しかし最近のバスはGPSで居場所がわかるのでどれくらい遅延するかが表示されるのでいいのだが、それに油断していると、突然到着予想時間がみるみる早くなっていき、「待ってまだ来ないで」と言っているうちに見送る、とかもありがちだ。わかっている。早く出ればいいのだけど、だって早く出たら寒いじゃない。

雪が災害クラスに積もっている土地に比べれば、この土地の雪なんてちょっとした困りもの程度なんだけど、非日常に心は揺れる。「わあ、雪だ」みたいな心持ちが完全になくなったわけではないし、これはこれで風物詩だと思ってるんだけど、現実としては困る、みたいなところ。

とはいえ、雪が降ったら庭にかまくらができていたりとか、雪だるまがあちこちに立っていたりとかで、誰かがはしゃいだあとが見えるのは悪くないとも思っている。

しゃっきりと見える

いい天気だ。

自宅の裏は山になっていて、紅葉した木々が混ざっているのが見える。その葉の一葉一葉がしゃっきりと見えるような気がして、解像度が高いな、と思った。綺麗にエンコードされてるな、でもいい。

現実はエンコードされない、というのはともかくとして、わりと解像度が高く見えるのは、今使っている眼鏡の度がちょうどいいということだ。迫りくる老眼の足音に怯えつつ、視力の低下はたぶんこの20年ほど止まったままで、眼鏡の度は進んでいない。

思い起こすのは小学生のころで、あの時期は近視の進行がとても早いので、眼鏡の度が合っていない時期があった(今と比べると眼鏡はむちゃくちゃ高かった。あれはなんだったんだ)。あるとき眼鏡を更新して、隣の家の庭に生えている竹の解像度がすごく高くなった(だけでなく、世界全体がしゃっきりとした)ことに震えた。もちろん、解像度という言葉はそのころは知らなかったけれど、世界がアップデートされたみたいな、こんなに世界は美しかったのか、みたいな。

もちろん、その解像度も慣れてしまえば感動しなくなってしまうのだが、「見える! 見えるぞ!」という感動は今も心のどこかに残っており、今日みたいに空気が澄んで、しゃっきりとした風景が現れるときにはそのときのことを思い出してしまう。