原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

堀 正岳・まつもと あつし『知的生産の技術とセンス 知の巨人・梅棹忠夫に学ぶ情報活用術』

 先日から電子手書きについて云々書いたりしてるとおり、得た情報、浮かんだアイデアをどのように活用するか?(活用できる状況を作るか?)ということが長らく課題になっています。

 とはいえ、それほど「情報活用術」の本に手を出してきたわけでもないのですが、この本はちらちら情報を見かけていたので気になっていました。ハイライトをつける可能性のある本は泣く泣くKindleで買っているので*1、発売日の0:00きっかりに配信。あまり知られてないっぽいのですが、Kindleはハイライトした箇所をWebで一覧できます。(https://kindle.amazon.co.jp/your_highlights

 さて、結論的に言いますと、うーん。期待しすぎたかもしれない。「おわりに」にも書いてあるんですが、基本的にこの本は「アジテート」の本なのですね。

 『知的生産の技術』は知的生産が学者のものだけではなく、誰にでも関係する生活の技術であることを「アジテート」し、さらに多くのノウハウが後に続く人々によって共有されることを促すための本でした。(location2098)

 梅棹先生の知的足跡をたどり、「知的生産の技術」を現代にあわせてアップデートした本書もまた、皆さんをアジテートするヒントは数多く紹介しましたが、情報整理の正解を書いたつもりはありません。(location2121)

 で、どちらかというと、私はあんまりアジテートを求めてはいなくて、むしろ「情報整理の正解」を求めていたとは言わないまでも、「知的生産の技術」を現代の環境でどのようにアップデートするか、という方に紙幅が割かれていると思っていたわけです。そういう意味では、ふさわしい読者ではなかった。

 とはいえ、面白くなかったというわけでもありません。次の部分はそうだよねーと思いました。

 具体的には、興味を持った情報があったら積極的にEvernoteにクリップしてゆくのですが、ここで一行だけでいいので「何が自分にその情報を保存させたのか」、「どういった点が琴線に触れたのか」を追記しておくことです。それがウェブの情報を手元に引き寄せて、自分の発見、自分の一部分にするコツなのです。(location1127)

 よくTwitterで紹介されている先のサイトをInstapaperで取り込みますが、TweetBotの場合、Tweetもろとも取り込まれます。これ結構便利で、「後で読む」系のサービスって「あれ、なんでこれ取り込んだんだっけ?」となりやすいんですけど、Tweetがついてると、「そういえばあの人が紹介してたんだった」と思い出せます。

 こういう話がもう少し具体的にあるといいなあ、というのが隔靴掻痒感。読後感としてはそういう感じでした。

 さて、それで肝心のアジテート部分ですが、タイトルの通り、この本のアジテート部分は、元の書名である『知的生産の技術』に+αされている「センス」にあります。この点については、たとえば次のように述べられています。

 知的生産のセンスを身につけた人は、普段の仕事においても没個性なルーティン作業にあまんじることはないでしょう。ルーティンに見えるものの中にもよりよくできる何かを、少し異なる方法でできる何かを探し求めるはずです。そうした人は画一的な組織の中でも個性を獲得していきます。そして個性は代替不可能なのです。(location1945)

 知的生産とは、どれだけ大量の情報を処理できたか、どれだけ多くの発信ができたかで測られるものではありません。それはあなた自身が感じた感動や発見をあなただけの言葉で表現できたかなのです。
 あなたの好奇心は、あなただけのものです。あなたのセンスで世界を切り取り、それをそのまま世界に投じてみましょう。今ほどそれが可能な時代はありませんでしたし、いまほど世界中の人々がみな声を上げ、他者の声に耳を傾けるべき時代も過去にはありませんでした。(location2121)

 この本では、情報の「インプット」と「アウトプット」に「個人のセンス」が加わることを3極モデルとしています。わかる。それはつまり、情報はただ情報として存在するわけではなく、ある文脈、ある創発の流れの中に載ることによって、初めて情報として機能する(その意味が発揮される/あるいは情報になる)ということだと思います。

 けど、それを「個人のセンス」と名づけるのは、うーん、という感じ。たとえば、本書でも次のような記述があります。

 インプットに際して、知らず知らずのうちに「これは自分の専門領域ではないから」という理由で、情報をフィルタリングしてはいないでしょうか? 第2章で書いたように「情報爆発」が進む中、情報のフィルタリングが不可欠であることは仕方がないものの、この「専門」については、いつのまにか自分を縛るものになっていないか、注意する必要があるでしょう。(location1771)

 ある時期にある分野について集中的に学ぶ、というのは今も昔も有効な学習手法です。仕事の依頼といった「情報」を自分が取り入れるかどうか、得意な人に任せた方がよい結果を出せるのではないかといった判断もまた必要な場面もあります。
 ただ、それが「専門性」という情報のインプットのフィルターにならないよう私たちは気を付けなければなりません。(location1783)

 ここで述べられていることは、「個人のセンス」という言葉ではすくいにくく、いっそ「個人」という言葉は捨てた方がいいのではないかと思いました。ここで述べようとしている「専門に縛られない」あり方は、「個人」のあり方というよりも、多様な情報を集積し、それらが相互に反応を起こすような「場」や「環境」をどう形作るか、という話としての方が理解しやすいです。そのとき、「自分」は、その「場」や「環境」にアフォードされた、「考える何か」として現れます。

 そのような主体のことを「分人@平野啓一郎」と呼んでもいいのですが(そして私は結構「分人」というアイデアが好きなのですが)、「分人」というほどそこで現れる主体は一貫性を持たないような気もします。

 とすると、『弱いつながり』にあったような考え方の方が、ここでは親和性が高いのかもしれません。

 ぼくたちは環境に規定されています。「かけがえのない個人」などというものは存在しません。ぼくたちが考えること、思いつくこと、欲望することは、たいてい環境から予測可能なことでしかない。あなたは、あなたの環境から予想されるパラメータの集合でしかない。あなたは、あなたの環境から予想されるパラメータの集合でしかない。(location50)

 環境を意図的に変えることです。環境を変え、考えること、思いつくこと、欲望することそのものが変わる可能性に賭けること、自分が置かれた環境を、自分の意志で壊し、変えていくこと。自分と環境の一致を自ら壊していくこと。グーグルが与えた検索ワードを意図的に裏切ること。
 環境が求める自分のすがたに、定期的にノイズを忍び込ませること。(location63)

 この本を読む中で、私にとっての「知的生産の技術」は、「個人のセンス」として捉えられるものではなくて、むしろ、常日頃の「つまらない私」を越えるような環境を作り、「こんなことを思いついてしまった」とか、「こういうことだったのか」とか、そういった発見を生む場を作る技術なのだろうなと思いました(書き上げた原稿を寝かして、未来の自分がそれを読んで何かを思いつくことを願うのも、そういうことのひとつでしょう)。

 たぶん、それは別にこの本の主張と大きく異なっているというわけでもなくて、しかし、「個人」ということに関する考え方が少しだけずれていた。そういう意味で、色々考えられる読書ではありました。

知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

*1:Kindle一強を避けたい派。