原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

物が壊れる

去年はとにかく物が壊れる年で、壊れたものをここに列挙するとへこんでいくので列挙はしないんですが、PC壊れる→iPhone壊れる→iTunesの曲全滅のコンボはこたえましたね! あれ以来、iPhoneにはどこか心を許せないでいます。iTunes経由で買った曲は何回でもダウンロードできるって信じてた。


しかし、逆に考えてみると、身の回りに「壊れる可能性のある」ものが増えているがゆえに、「なんか最近物が壊れるなー」って思うようになった、ということもあるのかもしれなくて、そのうち、「壊れること前提」で物を考えそうにもなってくるんですが、しかし、「取り返しのつく物」と「取り返しのつかない物」もあって、たとえばiPhoneとかだと壊れても「まあ、データさえ生きていればいいか」という発想もありうるんですが、ぬいぐるみとかになると「壊れても同じの買えばいいや」とはならない。なぜか。


そこに魂をみている、とかいうとちょっと不可思議系の話になるんですけど、魂的なものというか、固有性のようなものをみると、物はどんどん「取り返しのつかない物」になっていくということはたぶんあって、けれど、その固有性の認め方はやはり人によってかなり違うのだろうなあという気もします。子どものころに石ころにみた固有性は、大人になってからでは認めがたいものであったりするのだろうし、あるいは「本という形」に認める固有性も人によって大きく異なりそうで、本に固有性をみとめる人にとっては、裁断して自炊するなんて信じられない! ということにもなるでしょうし、電子書籍には魂を認められない、ということも起こってくるのでしょうか。


そういうふうに考えているとふと「物より思い出」というフレーズが思い浮かびましたが、しかし、思い出は物にも宿る
。あるいは物にしか宿らない。言い過ぎました。