原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

柴崎友香『虹色と幸運』

 webちくまで連載中の柴崎友香『虹色と幸運』*1がおもしろい。中身もおもしろいけれど、その表示方法もPDFというところで、私はiPhoneの「GoodReader」でダウンロードして、これまでの連載分をフォルダにまとめている。電子書籍うんぬんの話としてもおもしろいけれど、ただ単純に、なにか雑誌を切り抜いてコレクションしているような楽しさがあって、それだけでおもしろい。
 『虹色と幸運』は、柴崎友香の系譜で言えば、「主題歌」や「ブルー、イエロー、オレンジ、オレンジ、レッド」に同じく、“視点が飛ぶ三人称”が用いられている。たとえば次のような具合だ。

 夏美が一歩うしろに下がったのを、かおりも珠子も見逃さなかった。女の子は店の奥に立っていたかおりと珠子に気づいて、いっそう大きな声で言った。
「あ、お客さんか。ごめんなさあい。いらっしゃいませ。買ってくださいよ、いいの置いてますから。」
「違う違う、友だち」
 慌てて夏美が言った。一瞬きょとんとした表情になった女の子は、三人の顔を順番に見て、ばらばらなカッコだな、と思った。友だちって、似たようなカッコになりがちじゃん。(第2回より)

 この部分、読者は最初「かおりと珠子」の視点から文章を読む。それは「一瞬きょとんとした表情になった女の子は──」まで続き、当然この後には、「三人の顔を順番に見て不思議そうな顔をした」と来るのではないか、と予想されるのだけど、ここで文章がぐいんとうねり、「ばらばらなカッコだな、と思った」となる。ここで読者はすでに名前も知らぬ“女の子”の心の中に飛ばされている。そして、次の地の文のモノローグは完全に“女の子”のものだ。
 この、文の途中で視点が変わるということの運動性は、小説以外の媒体ではかなり表現するのが難しい──というか、できるのかどうか、私にはわからない。柴崎さんは、以前、浅野いにおとの対談だったかなにかで、小説はどうしても線状(順番)にしか書けないから、マンガや写真にように一気に色々なものをみせることができない、ということを話していたように思うのだけど、この一文の中で視点が移動していく方法は、話の内容とかそういったもの以前の文体レベルで、世界に“色々なもの”が混在していることを、運動として示している。
 ここらへんは文体の話なのだけど、小説の内容としても、『星のしるし』にあったようなどこか閉塞していた感じとは違ってきているように思って、主人公らの年齢は31歳なのだけど、なにか生き方として開けてきているような気がする。このあたりについては、連載を最後まで読まないとわからないとは思うのだけど、この感じは好きだなーと思います。