原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

くるくるくるま

「このくるま、昭和生まれなんですよ?」

 車を運転していると、たまに、「部屋ごと移動している感覚」の奇妙さにとらわれることがある。運転中に日常感覚を異化してしまうのは非常に危険なので、その考えに没頭することは避けなければならないが、しかし、多くの人間が座ったまま、前を向いて進んでいくというのは、とても奇妙なことではないか。
 車の中が擬似的な個室であるというのはよくいわれることで、車に乗っている間というのは見られている感覚が少ない。部屋がそのまま動いていくような、あるいは、もっといえば、ベンチがそのまま動いていくようなもので、その不思議さに囚われると、なんだかふわふわとした、おぼつかないような気持ちになる。
 普段の運転中は別にそんなことは感じなくて、車というのは、ようするに身体の延長線上にある。だからこそ、車体感覚と言われるそれ──つまり、自身の身体の大きさを拡大することができるのだし、“これくらいならすれちがうことができる”ということを直感として感じることができる。ひょっとすると、船や飛行機の操縦者たちも同じような感覚を持つことができるのだろうか。とすれば、人の身体感覚というものは、どこまで大きくなることができるのだろうか。
 ともあれ、「部屋」として車を捉えすぎると感覚が霧散してしまうというのは、部屋のすみずみまでは身体感覚が及んでいないからであると考えればすっきりするのだが、そんなこと、この文章を書き出すまではちっとも思っていなかった。