原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

梅木泰祐『あせびと空世界の冒険者』

[rakuten:book:17091882:detail]
 大空の世界、と呼ばれる「空世界」に生きる人類とウォルデシア帝国という失われた文明にまつわる物語。最初の数巻を読んだあと、これは完結したあとに一気に読んだ方が面白そうだ、と思ってたので積ん読してました。このたび完結したので一気に読んだ。面白かったです。SFの混じったファンタジー世界が楽しい。

 ジュブナイル、というとだいたいその枕詞は「良質な」になりがちなのだけど、この物語もまっすぐな少年少女の物語。人間である少年ユウと、ウォルデシアの遺産である人型モジュールあせびの物語は、どちらかというとあせびを主人公として展開するけれど、中盤あたりから登場人物たちの思惑が交錯し始め、結果として、それぞれが何かしら変わらなければならない決断を迫られる。以下、たたみます。

続きを読む

PayPay

 恥ずかしながら、ということでもないのだけど、PayPayを初めて使った。ので、後年、「ああ、こういう感じだったのだなあ」ということを思い出せるように記録をつけておく。

 生活の中から、現金を使う機会がとても少なくなったな、と思う。近所のスーパーは、ずっと現金のみが続いていたのだけれど、数年前からクレジットカードを受け付けるようになった。だが、機械を安物にしたのか、たびたび(他のお店では普通に使える)クレジットカードを読み取ってくれなくて閉口してたのだけど、これも去年あたりに機械を変えて、iDなどの電子マネー含めて対応するようになった。

 電子マネーは今はiDを主力としている。これは、Apple Watchで使えるからで、支払いとしてはこれが最も広く使え、そして、速い(意外とSuicaは使えるお店が少ないので)。そういうこともあって、バーコードを読み取る(らしい)PayPayは試しにアプリを入れていたものの、使う機会がなかったのだった。

 しかし、今年の4月に色々あって、鍵の管理とか財布の管理とかを見直したとき、「財布を持ちたくない(バッグの中に入れときたい)」という欲望が生まれた。これはつまり、できるだけ現金を使わないようにしよう、という志向を生む。今、最も現金を使う機会が多いのは、個人経営のパン屋さんだ。

 私の行動範囲にある個人経営のパン屋さんで、iDやSuicaのような電子マネーに対応しているお店はない。が、やはり導入しやすいのか、PayPayを導入するお店は増えはじめていて、なるほど、これなら支払える、と思ったのだった。

 が、問題がある。PayPayでの支払い方に自信が持てない。いや、わかりますよ。調べればいいんですよ。だけど、やっぱりQRコードでの支払いというのは、なにかよくわからないもので、おまけに使ってる人も見かけない始末だったので、しばらく私はまごまごしていた。

 で、今日、書店のレジが空いていたので、そうだPayPay使おう、と思ったのだった。

 確かPayPayには支払い方が2つある(おぼろげ)。お店のカウンターに「これを読み取ってください」みたいなQRコードが置いてあるので、ああ、支払うときにはアプリのカメラでこれを写せばいいのだな、ということはわかる。が、わからなかったのは、どういう理屈で支払金額がわかるのだろう、ということだった。

仮説。レジでなんとかすると、今スキャンした人のidとかに紐付けられ、瞬時に値段がアプリに表示される。

 そんなことできるのかな、と思ったけど、たぶん何かしらできるのだろうと思っていたら、ちがった。

実際。値段を自分でアプリに入力して、支払ったよ、ということをお店の人に見せる。

 そんなに人を信じているシステムとは思わなかった。本当に? これで合ってる? 支払ったよって記録がどこかで瞬時に確認できたりするのかな?

 書店のレジには、二人の店員さんがいたのだけど、支払い終わったあとに二人で「PayPay緊張する」と話していたので(大変正直)、まだそういうものなんだな、と思った。できれば、iDのようなものがもっとお店にとって安価に使えるようになって広がってくれたらそっちの方が楽だな、と思うけど、なんとなく勝手はわかったので、たぶんもうまごまごしない。
[asin:B07V1P72T6:detail]

武田綾乃『響け! ユーフォニアム』

 電子書籍にならないかなーとずっと待っていたのですが、どうも宝島社は電子書籍に反対の立場を保ったままの様子。それなら、せめて在庫が尽きてるものの重版をしてほしいのですが……。
[asin:4800262267:detail]
 映画で2年生編が描かれたことでようやく観念して、がっと原作を買えるだけ買いました。上記の1冊だけ、結構探したのですがありません。困る。

 なかなか原作に手をつけなかったのは、電子書籍が出なかった、ということもありますが、みんな関西弁になってる、という話もあって、そうするとアニメーション版とは結構印象違うのかな、と思ってたというのもあります。読んでみるとそのあたりは思ったよりは気になりませんでした。原作から先に読んでると気になるところかもしれませんが、すでに声の印象が入っている、というのが大きいのかも。

 現在のところ、外伝である立華高校編と本丸の3年生編を除いては、短編集を含めて読み終わりました。面白かったー。実のところ、アニメーション化に際して、原作からかなり改変されてるんじゃないかな、とも思ってたのですが、もちろん、長さの問題で2年生編はかなりカットされているものの、1年生編は、丁寧なアニメーション化だったんだなと思いました。本編は久美子中心の書き方ですが、短編集は色々な視点も見られるのでそれもよかったかな。

 特に1巻を読んでるときに思ったのは、描写に結構毒があるな、ということで、それがいい味になっていると思います。たとえば次のようなところ。

「どちらを今年の目標にするか、自分の希望に手を上げてください。全国大会に行くか、のんびり大会に出るだけで満足するか、です」
 小笠原の言葉に久美子は頬杖をついた。こういうとき、じつは何を選ぶべきかはすでに決まっているのだ。大人がいるなかで提示される選択肢、子供はそのなかでもっとも正しいものを選ばなくてはならない。世間的に正しいもの、社会的に正しいもの。それらは自然に淘汰され、各々の胸のなかで選ぶべき答えは絞られる。(1巻 p.55)

 ここの箇所、これまでも何回か嫌な場面と書いてきたのだけれど、やっぱりそういう描写だよね、と思いました。あの場面の滝先生がどれくらい自覚的だったのかはわからないけれど(アニメーションのスタッフコメンタリーでは「全国大会を選ばないとはここで滝先生は思ってないよね」という発言があります)、結果として、やっぱりあそこの話の持っていき方はよくない。

 こういう描写は巻を重ねるとだんだん少なくはなっていくのですが、たとえば、途中で部活をやめる葵についても次のような描写があります。

「葵ちゃん、」
「何?」 
 彼女は振り返る。
「部活辞めたの、後悔してない?」
「してないよ。まったくしてない」
 晴れやかな表情で言う彼女の指が、自身の腕をぎゅうっとつかむ。白い皮膚に残る赤い痕。それがあまりにも痛ましかったものだから。
「そっか」
 久美子は笑って、だまされたふりをした。(1巻 p.227)

 ここの描写、とてもきれいで好き。
 葵はわりと話の犠牲になっている感がありますが、2年生編では元部長と一緒に大学生になった姿を見せており、それが楽しそうなものだったのはよかったなと思います。部活を途中でやめて、大学受験に専念したけれど、それによって(将来の姿として)物語的な罰を受ける展開じゃなくてよかった。大学で結局音楽をやっている、というのもいい。ただねー。アニメーションではこのあたりのエピソードは削られちゃってたんですよね……。

 とはいえ、新しい巻にも毒らしい毒はあり、たとえば次はわりとどきっとするところ。でも、そうだよな、とも思うところ。元部長の小笠原晴香のモノローグ。

 自分とあすかの友情は、これから先、いま以上の密度を持つことはないだろう。自分は、香織とは違う。信奉者のごとくあすかに心酔することも、自己を捧げることもできない。数年単位で集まって、ちょっと近況報告をする程度の仲。多分、それぐらいがちょうどいい。知人より少しグレードの高い友人関係は、いつか懐かしさとわずらわしさに書き換えられていくのだろう。
 でも、いまだけ。いまだけはまだ、自分たちは友達だった。(ホントの話 p.103)

 「懐かしさとわずらわしさ」という言葉の選択がいいなあ、と思います。これは本当にそうだと思う。

 読んでいる間に考えていたことは色々あって、思ったよりも原作のみぞれは色々な成長をしているな、とか、夏紀先輩の学年の話(2年生編の部長・副部長の関係とか)は読んでるとなんか泣いてる、とか、色々。これはまた読み返すことになるんだろうな、と、そういうことを思います。

 さて、ここからが未知の3年生編。これまでの伏線からすると(あるいは状況とすると)、3年生編で直面するかたちになるのは次のような出来事かなあとぼんやり。

  • 久美子が「自分よりうまいユーフォニアム奏者」(同級生もしくは後輩)と出会う。
  • 麗奈が上記の奏者に対し、なんらかのアクションを行う(久美子はそのことをどう受け止めるか?)
  • 久美子は進路をどうするのか。
    • 現在繰り返し描写されているのは、「久美子は教えるのが上手い(人をよく見ている)」ということ。
    • 滝先生の亡くなった配偶者が教師だった(※顧問には向いていなかったが)というエピソードが描かれている。
    • とすると「教師」になるというのが道として考えられるだろうか。
    • でもそれを覆してプロになる道も見てみたい。
  • 葉月はAに入れるのか
    • 麗奈と練習したことで腕が上昇した描写があるため、いけるかもしれない。
    • でもAに入れない、という話にしてきそうな予感もある。
  • 緑輝は……何もないかな
    • そういえば月代君の父との確執問題があった。
    • でもやっぱり何もなさそう。

 先を予想しつつ楽しみにできるのはうれしいです。

[asin:4800239826:detail]
[asin:4800241197:detail]
[asin:4800274893:detail]
[asin:4800293995:detail]
[asin:4800294010:detail]

連休の1日に

 海に来ていた。はるばるというわけではなく、裏山を越えれば海につく。車で20分くらいの入り江。

 入り江と、そこにある家の並びを見ていると、それだけで物語がありそうで、そういうことを思うのは、いつもと違う場所に来たからなのだろう。ふと思い立てば、というほどでもなく、いつもの道をちょっと外れればたどり着く位置にあるその海は、でも、長い連休で、そろそろ気分を変えようかなあ、とでも思わなければ、来ることがなかったかもしれない場所だった。

 本を読む。なんということもなく、車の中で寝転がったり、起き上がったりと、窓を開けたまま、姿勢を変えつつ、何時間も本を読んでいる。別にどこで本を読んでもいいのだけど、本をどこで読んだのかは記憶に焼き付くもので、たぶん、何年かあとに、その本をどこで読んだかなあ、ということを、私はこの日についての曖昧な記憶とともに思い出すのだろう(こうして書いちゃったから明確な記憶になりそうだけど)

f:id:Rouble:20190503172815j:plain

節目

 節目、ということをそんなに意識しなくてもいいんじゃないか、と思いながら、私は窓を開けた。暑いのか涼しいのか。肌をさらすとひんやりもするし、けれど、服を重ねるとじとりと暑い。電気ストーブをつけながら汗をかいているような、そういう夜だ。

 平成最後の、と、テレビをほとんど見ない生活をしていても、そういった言葉が目に入る。スーパーにいっても、平成最後のセールで餃子が安かったので買ってきてしまった。平成が最後であることと、餃子が安いこととの間には何の関係もないけれど、そういう意味づけがされると、ただのセールも意味があるように見える。

 気にしないようにしよう、としてるわけでもなくて、本当に気にしてなかったのだけど、こうも色々と書かれているとそわそわとはしてくる。平成最後の朝食。平成最後の昼食。平成最後の昼寝。平成最後の夕食。延々と続きそうな連休に、始まる前はうんざりとしていたところもあったけど、今はもうしばらく続いていてもいいよ、という気分になっていて、そういうところが現金だ。

 ちゃんとしよう、と時々そう思うけど、ちゃんとできた試しはない。節目になれば。そう思いつつだらだらと時間は重なり、1年、1年、また1年。そうだなあ、これではまずいなあと思うので、とりあえず平成最後の掃除をしようかな、と私は立ち上がる。

平成のこと

 平成が発表されたときのことを思い出すと、一緒にスイミングスクールの記憶が蘇ってくる。捏造された記憶でなければ、だけど、たぶん、私はその日、スイミングスクールへ行ったのだろう。

 スイミングスクールへは、バスで通っていた。なかよし公園と呼ばれていた三角形の公園があり、その公園はあまり遊具もなく、人気のない公園ではあったが(「なかよし公園」という名前は、近くの商店の名前を使っているものであり、よく考えてみると、その名前がどの程度共有されていたのかはわからない。が、自分たちで名付けた、という記憶もないということは、ある程度受け継がれてきた名前だったのかもしれない。商店がなくなっている今となっては、おそらくその名前も失伝したのではないかと思うけれど)。

 とくに平成という元号について、思うことはそれほどないけれど(数年前からなんか「平成って古いな」という漠然とした感想があり、ときどきそれを書いたりしてたと思うけど)、スイミングスクールの、あのなんかちょっとじめっとした感じ(たぶん温水だったはずだが)、あまり楽しいものではなく、大変なものであった、という漠然とした感覚と、平成という元号は結びついている。

 私はもう20年くらい多分泳いでなくて、でも、おそらく今も泳げるんじゃないかな、という特に根拠のない感覚があるのだけれど、それは、あの小さかったころの私がスイミングスクールに通っていたことによるのだな、と思うとそれは不思議だ。

 次の元号が何の記憶と結びつき、のちの私に思い出されるのかはわからない。何の記憶と結びつかない、ということがないといいな、とは思う。あるいは、Twitterやブログといったものを懐かしく思いながら、思い出すのかもしれないけれど。

新年のこととか

 去年は全然日記を書かなかったので、今年は書きたい。そう、毎年思っている気がする。

 2018年はわりと停滞の年で、特に後半は始終ぼーっとしていた。これはいかん、と思いつつ、1月1日もぼーっとして過ごした。これはいけない。

 それなりにコンテンツに触れてはいるのだけれど、それらは記録を残さないと記憶からも消えてしまいやすく、また、後から振り返ったときにも「このとき何見てたんだっけ?」とか「何読んでたんだっけ?」ということが思い出せない。それで何の問題があるだろうか、と考えてみると、なんだろうな。特に問題はないのか?

 問題があるとすれば。こうして、去年を振り返ったときに、なんか時間を無駄にしたな、という感覚が残ることは避けたい、とか、そういうことだろうか。思い返してみるに、去年は『ゆるキャン△』と『宇宙よりも遠い場所』、『リズと青い鳥』『やがて君になる』に狂っていた1年だったのだが……あれ、書き出してみたら、これなんか傾向性あからさまではないか? と思ったが、それは気にしないことにして、特に去年の1月は「あー、なんか最近、何度も見直すようなコンテンツに出会ってない気がするけど、これが老化というものなのだろうか」と思ってた矢先に何回見直すの? というくらいの衝撃を受けたため、なんというか、「コンテンツが好きになれる」ということのよさを改めて再確認した感じがあったのだった。

 そういう衝動みたいなものがだんだんほっとくと枯れてしまうとすれば、今年はそういうのをもうちょいプラスに生かしたい、というか、それどうやってやるの、っていうのはもちろんわからないわけですが、そんなことを考えてみたいと思っている。