原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

平成のこと

 平成が発表されたときのことを思い出すと、一緒にスイミングスクールの記憶が蘇ってくる。捏造された記憶でなければ、だけど、たぶん、私はその日、スイミングスクールへ行ったのだろう。

 スイミングスクールへは、バスで通っていた。なかよし公園と呼ばれていた三角形の公園があり、その公園はあまり遊具もなく、人気のない公園ではあったが(「なかよし公園」という名前は、近くの商店の名前を使っているものであり、よく考えてみると、その名前がどの程度共有されていたのかはわからない。が、自分たちで名付けた、という記憶もないということは、ある程度受け継がれてきた名前だったのかもしれない。商店がなくなっている今となっては、おそらくその名前も失伝したのではないかと思うけれど)。

 とくに平成という元号について、思うことはそれほどないけれど(数年前からなんか「平成って古いな」という漠然とした感想があり、ときどきそれを書いたりしてたと思うけど)、スイミングスクールの、あのなんかちょっとじめっとした感じ(たぶん温水だったはずだが)、あまり楽しいものではなく、大変なものであった、という漠然とした感覚と、平成という元号は結びついている。

 私はもう20年くらい多分泳いでなくて、でも、おそらく今も泳げるんじゃないかな、という特に根拠のない感覚があるのだけれど、それは、あの小さかったころの私がスイミングスクールに通っていたことによるのだな、と思うとそれは不思議だ。

 次の元号が何の記憶と結びつき、のちの私に思い出されるのかはわからない。何の記憶と結びつかない、ということがないといいな、とは思う。あるいは、Twitterやブログといったものを懐かしく思いながら、思い出すのかもしれないけれど。

新年のこととか

 去年は全然日記を書かなかったので、今年は書きたい。そう、毎年思っている気がする。

 2018年はわりと停滞の年で、特に後半は始終ぼーっとしていた。これはいかん、と思いつつ、1月1日もぼーっとして過ごした。これはいけない。

 それなりにコンテンツに触れてはいるのだけれど、それらは記録を残さないと記憶からも消えてしまいやすく、また、後から振り返ったときにも「このとき何見てたんだっけ?」とか「何読んでたんだっけ?」ということが思い出せない。それで何の問題があるだろうか、と考えてみると、なんだろうな。特に問題はないのか?

 問題があるとすれば。こうして、去年を振り返ったときに、なんか時間を無駄にしたな、という感覚が残ることは避けたい、とか、そういうことだろうか。思い返してみるに、去年は『ゆるキャン△』と『宇宙よりも遠い場所』、『リズと青い鳥』『やがて君になる』に狂っていた1年だったのだが……あれ、書き出してみたら、これなんか傾向性あからさまではないか? と思ったが、それは気にしないことにして、特に去年の1月は「あー、なんか最近、何度も見直すようなコンテンツに出会ってない気がするけど、これが老化というものなのだろうか」と思ってた矢先に何回見直すの? というくらいの衝撃を受けたため、なんというか、「コンテンツが好きになれる」ということのよさを改めて再確認した感じがあったのだった。

 そういう衝動みたいなものがだんだんほっとくと枯れてしまうとすれば、今年はそういうのをもうちょいプラスに生かしたい、というか、それどうやってやるの、っていうのはもちろんわからないわけですが、そんなことを考えてみたいと思っている。

2018年の電子書籍

 定点記録の電子書籍日記。

 まずは昨年までの蔵書数です。

BOOK☆WALKER:2390冊:2017年購入冊数427冊
紀伊國屋書店(Kinoppy):140冊:2017年購入冊数0冊
Amazon(Kindle):128冊:2017年購入5冊

 これがこうなりました。

BOOK☆WALKER:2809冊:2018年購入冊数419冊
紀伊國屋書店(Kinoppy):145冊:2018年購入冊数5冊
Amazon(Kindle):146冊:2018年購入18冊

 だいたい購入冊数は毎年400冊前後で安定、というところでしょうか。積ん読も順調に増えていますが……。この罪悪感のなさである。

 特筆すべきことは特に起こってないような気もしますが、BOOK☆WALKERもかなり細かなところまで手が届くようになり、安定しています。あ。『境界線上のホライゾン』が電子書籍化されたのは特筆すべき点かもしれませんね。今、最初から少しずつ読んでますが、いつになったら読み終わるのかな……。途中から電子書籍化を当て込んで未読だったので、最初の10巻分くらいしか読んでいないはずです。

bookwalker.jp

 周りでも電子書籍を使っている、という人が増え、特にマンガに関しては完全に定着に至った、という感じですね。逆に、物理的な本をなんとなく買いづらくなっているので、図書カード買っとくといいんじゃないか、というのが今年の思いつき。眠ってた図書カードを何枚か発掘したのですが、図書カードになってるともう他のものは原則買えないので、「ほしい! けどちょっと高い!」と思うようなものでも手に取りやすくなります。おすすめ。

rouble.hatenablog.com
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放置しすぎ問題

 長らく放置しすぎて荒れ地になっていたので、そろそろ手を入れたいと思う季節。年末なので、色々な人が今年の総括を始めていて、私といえば、今年の生活はちょっと荒れすぎでは? というか遊びすぎでは? という感じだったので、来年はもうちょっとちゃんとしたいですね。いつも言ってますね。

 今年買ってよかったもの! とかもやりたいのですが、今のところ……なにか買ったっけ……と回りを見回してみますが、さて。あ、Google Homeか。最近寒くなってきたので、家に帰る前に暖房をつけられるので便利、と書いていて気づきましたが、これGoogle HomeではなくてRemoの機能でした。私の中で二つは混ざっている。

Nature Remo mini 家電コントロ-ラ- REMO2W1

Nature Remo mini 家電コントロ-ラ- REMO2W1

 買ったといえばWiMAXの新機種ですが、これはIIJmioに一旦切り替えてしまった負け戦のあとであり、なんていうか敗残感? 大して通信しないから、mioの12GBコースでも大丈夫なんじゃない? と油断したのが運の尽きで、

・12GBとはいえ、だんだん目減りしていくのはストレス(なんとなく使いにくくなる)
・そもそも昼とか夕方とか全然通信速度出ない!

という2点で、泣く泣くWiMAXを契約し直しました。戻ってわかるが、やはり素晴らしかった。昔のことは許す(※3日3GB制限したこと)ので、今後ともよろしくお願いいたします。

アンディ・ウィアー『アルテミス』

アルテミス 上 (ハヤカワ文庫SF)

アルテミス 上 (ハヤカワ文庫SF)

 結構前に読んだのだけど、感想を書こうと思って書いてなかったので少しだけ。

 月面都市「アルテミス」を舞台にしたSF作品。解説によると、この都市を舞台にした別の作品の構想もあるようなので、世界観を同じくする作品群のひとつになるのかも。

 私はSFをあまり読まないので、この作品がSFとしてどうなのかはよくわからないのだけど、主人公であるジャズの一人称で展開される物語は、徐々にその過去や人間関係が見えてくる面白いものでした。なんでこの人はジャズとこういう関係なのだろう、ということや、ジャズが何の仕事を何のためにしているかということ。酸素に関する設定とか、そういうのもよかった。ジャズは月面都市のあちこちを動き回るので、その動きによって、私たちは「アルテミス」の各所を巡ることができる。

 何よりよかったのは、ジャズの一人称の常体と敬体の使い分け。私は、どうもそのスイッチに弱い。

 落ち込んでいる時間はない。午後にKSC貨物機が着陸していたから、仕事にありつけるはずなのだ。
 説明しておきます──〝午後〟というのは太陽がきめているわけではない。ここでは〝正午〟は二八地球日に一回あるだけだし、どっちにしろ目で見てわかるわけではない。
 (『アルテミス[上]』)

 『火星の人』がそうだったように、この話もまた、いくつもの計算違いのことが起こる。『火星の人』とちょっと違うとすれば、人間関係の味つけが濃いというところだろうか(何しろ『火星の人』は火星に一人っきりだったのだから)。結果的にこの物語が落ち着くところは、かなりありふれた物語なのだけど、そのありふれた物語が徐々に姿を現すところがよい。一度最後まで読み、そしてもう一度読めば、たぶんジャズの語りの巧みさが読み取れるんじゃないかと思います。

火星の人

火星の人

みんなで歳をとる

 「ものごころがついた」と言えるのがいつのことを指すのかははっきりしないが、「今の自分」との明確な連続は、大学生のころからになる。もちろん、中学生や高校生のころの記憶もあるし、小学生やその前の記憶だってあるのだが、そのあたりの自分は、今の視点から見れば、半分くらいは「異なる自分」が中にいたような感覚がある。

 大学に入学した歳は、PCに初めて触れた歳でもあった。これが、自分の世代にとって遅かったのかどうかはわからないのだが、高校生のころの自分にとって、PCは未知のものだったと言える。そして、それはインターネットとの出会いでもあった。

 残念ながら、大学生のころにインターネットで交流していた人たちがどこにいったのかは、もうわからない。当時の「ホームページ」の残骸はあり、そこからのリンク集も一部機能しているはずだが、そこからつながっているのもほぼ全てが廃墟だろう。私たちは、あるサイトのBBSに集い、遊び、そしてそれぞれの「ホームページ」を作っていた。

 今、Twitterなどでその生活の欠片を見ている人たちの中で最も初期にあたるのは、はてなダイアリー関係から派生している人たちになる。思い起こしてみても、なぜその人を知ったのか、ということがわからない、ということも大半だけど、Twitterのリストのうちのひとつは、まだスマートフォンではなかった、「ケータイ」のころのタイムラインをある程度維持している。

 振り返ってみると、そのころからもう15年近く経っている。だんだんと歳をとってきたし、「下の世代」がたくさんいるなあ、と思うことも増えてきた。もちろん、初期から見ている人たちも、ライフスタイルが変わったり、いつの間にかいなくなってしまったりしている。

 しばしば思うのは、こうやって「みんなで歳をとる」んだなあ、ということだ。インターネットがなかったころに、こういう感覚があったのかどうかはわからないのだけど、私たちはみんなで歳をとっている。私の場合、どうもそれは、「リアルな知人」に対して思うよりも、「インターネットの人々」に対して思うようになったようだ。15年、本名も知らず、何も仕事をされているかも(時には)知らず、どこに住んでいるかも(具体的には)知らずに、そのとき何が好きで、何に憤っていて、何をしようとしていて、何を考えているのかを(ぼんやりと)見続けてきた。

 しかし、今日ふと思ったのだけど、急にこの状態がぷつんと切れることは、もちろんありうる。たとえば、Twitterがサービスを停止するだけでその行方が(私から見て)わからなくなる人はたくさんいる。Twitterは思ったよりも長く続いているし、私たちもすっかりそれに慣れていると思うのだけど、しかし、30年後にあるかというと怪しい。

 30年後にインターネットをしている自分の姿は容易に想像できる。これまで15年変わらなかったのだ。たぶんもう変わらないだろう。だけど、その過程の中で「みんな」と途切れてしまったらそれは大変辛いだろうなあと思った。私は、それほど頻繁にリプライを交わしたり、DMをしたりしているわけではないし、基本的にひとりごとマシーンなんだけど、それはタイムラインという多声の中でのひとりごとで、虚空に向かって発しているわけではない。明確な相手を想定していることは稀だけど、そこには「みんな」への意識が少なからずある。

 こうやって文章を書くことで「自分」を形作ることはできるし、もちろん「リアルな知人」によっても「自分」は形作られているのだが、「みんな」がいなくなることは、かなり大きなダメージになるだろうと、思った。

 ようするに何が言いたいかというと、みんなでどこかに引っ越すなら、置いていかないでね、ということです。

『リズと青い鳥』(続)

映画『リズと青い鳥』ED主題歌「Songbirds」

映画『リズと青い鳥』ED主題歌「Songbirds」

 2回目を見てきました。1度色々な解釈を見たあとだと、ひとつひとつの表情や動作の見方の精度があがって、とても楽しかった。2回目推奨です。

 以下、今回の鑑賞で気づいたこと。畳みます。

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