原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

小説を書くこと

 これまでに何本かの小説を書いてきた。ちゃんと書き上がった小説はたしか4本くらいしかなくて、そのほかに、数千字くらいで止まってしまっている小説がたくさんある。読み返してみると、面白かったり、恥ずかしかったり。

 今日、ふと小説が書きたくなってちょっと書いてみた。どうしても、小説にはそのときそのときの自分が現れる。これは、ちゃんと取材して書くような人であればそうでもないのだろうけれど、私にとって小説はそのように書きたいものではないようなので、自分が色濃く出てしまう。

 思いついて過去の小説を眺めてみると、働きはじめたころや、大学に通っていたころの自分がそこにいて、「おお、こういうこと考えていたな……」と懐かしくなって、涙が出そうになった。ウソだ。正確に言えば、いま一文前の文を書きながら涙が出そうになったので、これはどちらかというと文章に駆動された気分のようなもの。

 日記も同じといえば同じなのだけど、小説はそれ以上に、文章に気持ちのうねりがあらわれる。それは、私自身がそういったうねりのある文体を好むからだ、ということでもあるのだけど(そしてこの文章はその影響を強く受けている)、だからこそ、日記とはまた異なる自分が、過去の小説には閉じ込められている。

 書き始めたのは、以前にこの日記にも書いた、子どものころに住んでいた町のことだ。どこかで書いておかないと、あの町のことは言葉にされないままなのではないか?(そんなことはないにしても、私が見返すことができるものはなくなりかねない)と思っていたので、町を散歩する小説を書く。

 過去に住んでいた町を散歩するのは、記憶を散歩することでもある、というのは格好つけすぎなのだけど、書いているうちに時間の流れを書くことになるのではないか、という感じがした。さて、ちゃんと私は最後まで書けるのだろうか(可能性は10%くらい)