原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

アニメーションの見方

「砂場」なんかいらない - いつだって"本気"じゃないと気が済まない君へ - さよならストレンジャー・ザン・パラダイス

 この記事がおもしろかったのです。

 今だと、twitterニコニコ動画だ…あと、自分は全然詳しくないので、どーこー言う資格もないんですけど、2chの実況とかね…コミュニケーションツールって一杯あるでしょ。そういう中でね、"作品"っていうものの受け入れ方が変容しているってのは、これはもー仕方がないことなんですよ。そこには必然性もあるし、自然なことだよねっていう。技術の進化に合わせてライフスタイルなり、感受性が変わっていくっていうのは、ある意味では健全だし、健康的なことだと思いますし。

 ただねー。あのね…「砂場」で楽しむ為に、作品を消化する、接するっていうのは自分にはない感覚だなって思って。うん、ない。それはないよ。

 もともとそんなにテレビでアニメーションを放送している地域でもないので、ニコニコ動画などの配信には大変お世話になっている(というか、こんなに配信始まる前はあまりアニメーションを見ていなかった)のですが、確かに、指摘されているとおり「アニメーションの見方」自体が変化しているようにも思うし、それに対して違和感を持つ、という人も一定数いそうです。

 私は、以前にこんな記事*1も書いたとおり、わりとコメントを見ながらアニメーションを見るのが好きなほうで、それは確かに「消費」的な見方だなあと自分でも思います。

 これがある種の「悪影響」のように感じられるのは、「コメントがないとものたりない」と思ってしまいそうな瞬間があることで、そこではもう「作品」はコミュニケーション(か?)のための触媒になってしまっている。

 ブルーレイディスクなどにも「ニコニコ動画視聴権」がついている作品があったはずで、そこで買われているのは「作品」だけではなくて、「あのときの思い出」だと思います。一挙放送などがあるときに、テンプレート化した弾幕に「懐かしい」という言葉が多く出てきますが、それもわかるのですね。あのとき、このアニメーションを見ながら、自分たちはこんなコメントをした(あるいは読んだ)。その記憶は結構鮮烈です。

 ふにゃふにゃして方向性がない文になっているのは、このことに関してどう考えればいいのかなー、ということが定まっていないからです。コメントを読むのは楽しい。けれど、コメント越しにアニメーションを見るとき、その体験は「コメントのない」それとは大きく異なってしまう。

 「これは本当に好きだな」と思うものは、「コメントなし」と「コメントあり」の両方を見る、というのが今の私の選択ですが、時間を二倍使ってしまうので、そういう見方をするのは1クールに1つあるかないか、という感じです。