原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

漢字という障壁

 さいきん、とあるゲーム実況をみている。アドベンチャーゲームの実況だ。その実況をしている人は、漢字を読むのが苦手で、しかしそれに反して、そのアドベンチャーゲームにはやたらと難しい漢字が出てくる。

 難しいとはいっても、旧字体が続出するというわけでもない。一定数の読書経験があり、日常的に常用漢字外の漢字に触れることの多い人にとってはなんということもない漢字だ。ただ、その実況者さんにとっては、それらの漢字は難しく、音読するたびに読み間違いが起こる。ときに、めんどくさくなって「よくわかんない」と読み飛ばしてしまうこともある。

 考えてみれば、これだけ人の漢字に対する感じ方をまざまざと感じる機会は稀だ。もちろん、家庭教師や塾などで働けば、漢字が読めない学習者に出会うことはあるわけだけど、それでも、ゲーム実況という「自分の考えていることをたくさん口に出しながら物語(ゲーム)を進めていく」という行為の中で表れるその感じ方に対する感触は、体験として一線を画している。

 上から目線でいうようだが(実際そうなのだが)、別にその実況者の「頭が悪い」ということではない。ときに私たちは字が読めるかどうかをその人の知性の表れとしてみてしまうことがあるが(それは特に外国語話者に対して顕著なのだが)、両者にはゆるい関連があることもあるのだろうけど、基本的には関連のないことだ。実況者のみせる物語に対する感覚はむしろ優れているし、伏線などにも細やかに反応する。

 そういう人であっても、あまりに漢字が読めない文章になるとめんどくさくなって(それもひどく苦しそうに)読み飛ばしてしまう。おそらくそれは、たとえば英語の文章を読んでいて、「あーここわかんない!」となってしまうことに似ているのだろう。

 こういうときに思うのは、「漢字」(特に難しい漢字)を使わなければいいのではないか、ということだ。アドベンチャーゲームによくみられることだけども、雰囲気を出すためにあえて難しい漢字を使う、ということがままある。別の言葉に言い直すか、あるいは、ひらがなにできるものはひらがなにしてしまう、というのもひとつの方法だろう。

 ただ一方で、漢字を使うことによってかもしだされる雰囲気が好きだ、というのもよくわかる。ここはひらがなでは雰囲気が出ない、とか、この言い回しじゃないと面白くない、だとか。それらが制作者の空回りであれば、もちろん別の言葉になおせよ! ということになるのだろうけども、マッチしていればしているほど、別の言葉には代替不可能なものになっていく。

 漢字を多用することは、一定のリテラシーの範囲で障壁を作ってしまうということだ。しかし、「使うな」というのも一方で違和感があるわけで、このことを考えると、いつも答えが出なくなる。ふりがな機能があれば済む、という問題でもないように思っている。