原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

野崎まど『パーフェクトフレンド』

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 野崎まど、えっと何冊目だっけ。4冊目か。主人公の職業が毎回変わりますね。『[映]アムリタ』は大学生、『小説家の作り方』は新米小説家、『死なない生徒殺人事件』は高校教員、次に読む予定の『舞面真面とお面の女』は大学院生っぽい。そして、この『パーフェクトフレンド』は小学4年生です。

 物語のテーマは「友達」。「友達」という概念が理解できない「さなか」という天才の女の子と、クラスの学級委員である「理桜」という女の子との交流を中心に物語は進みます。

 「さなか」の「友達」に対する疑問は、ステレオタイプといえばステレオタイプで、マクロな視点から「友達になる」という現象を考察しようとする中盤の「さなか」の行為は、見慣れたものといえば見慣れたものです。

「理桜さん。〝友達〟とは、純粋にシステム的な現象なんですよ。遙か昔に人類が社会生活を始めてから、今日まで無数の友達がいました。友達のグループがありました。それらが長い歴史の中で、文化的に、無意識的に淘汰されて洗練されてきた。それが友達。友達という現象。今私たちが見ている友達とは、〝友達〟という概念そのものが自然淘汰された結果に過ぎません。いいですか、理桜さん。《私たちが四人組の友達》なのは、《キリンの首が長い》のと同じなんです。私たちは、システム上効率が良いという理由だけで友人たり得ている。それこそが第一の問いと第二の問いの答え」

 このような「さなか」の考え方に対しては、だいたい想像通りの覆され方がなされるのですが、結構びっくりしたのは中盤の展開。いちおう隠しておきます。


 中盤、上記の「さなか」の問題が解決して、「もう終わりかな」というムードが漂ってくるのですが、残りページがまだ結構ある。そのとき。

 足下の土も昨日の雨でぬかるんでいる。気を付けないと滑って転んで服が汚れるなぁ、と理桜は思った。
 それが。
 理桜がはっきりと覚えている最後の記憶だった。

 ここまで「理桜」が視点人物であり、どちらかといえば「さなか」は対象として描かれる人物だったので、ここで視点が逆転するのはびっくり。その直前あたりに視点がふっとぶれてるところがあったのでなんだろう? とは思ってたのですが。

 その後の展開は実に野崎まどらしい展開でした。なるほどなー。

 そして、最後に開示される「さなか」のフルネーム、「最原最中」。『[映]アムリタ』に出てきた天才、最原最早にそっくりの名前を持つことの意味は、『2』の中で語られるのでしょうか。『舞面真面とお面の女』の次に『2』を読む予定なので、楽しみにしています。

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