原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

臆病ではないほうが楽しいのかもしれないということ

 そんなに自尊心が高い方ではないと思うのだけど(いや、認められないくらいに高いのかもしれないが!)、それでも、自分の能力の低さのようなものを見抜かれたらどうしよう、という臆病な気持ちがないわけでもない。いや、わりとあるのかもしれない。

 そういう気持ちがあるのは、自分がおそらく能力以上に見られ、そして、その張りぼて加減が露呈したときに「がっかり」させてしまうのではないか、という思いの流れがあるからなのだろう。そして、そのために自分の姿を隠し、張りぼてを演じようとするのも、また臆病のなせるわざであることに違いはない。

 ただ、最近少しずつ思うのは、もうそこに臆病になっても仕方なくて、「わからないものはわからないし、できないことはできない」ことをオープンにしていった方がいいのではないかということだ。これもできない、あれも知らない、何もわからない。じゃあどうしようか考えましょう、とオープンにして、人と一緒に考える方が、結果的には、張りぼてを大事にしているよりも、もっとおもしろいことができるような気がする。

 なんか自己啓発的なことを書いてるような気もするけれども、自分から少しだけ離れて、“自分”を明け渡していくことによってできることってあるような気がしていて、そのために、色んな人に何かを言ってもらうことで、“自分”なるもの(?)を共同制作していく、みたいな見方の方が、臆病でいるよりは楽しいのではないかなあと思うのです。つまり、張りぼてはどこまでいっても張りぼてで(だって、自分の思うとおりに人に見てもらえることなんてありえない)、じゃあ同じ張りぼてなら、舞台裏を知ってる人を増やして、「この張りぼて、もうちょっとここよくしたいんだけどどうすればいいかなあ」って話をしていく方が楽しいはずだ! ということが、なんとなく実感的にわかりつつあるような気がしているのです。