原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

「おなかがすく」ことへの感じ方

 おなかがすくことがきらいではない。きらいな人がいるのだろうか? と思ってしまいもするけれど、言いかえると、「空腹な状態」であることがいやではない。

 人と話していて時折知ることになるのだが、「空腹な状態」にあることを許せない人が一定数いるようだ。たしかに、お腹の音がなるほどの空腹状態にあると(今まさになってる)、人といるときには気になるけれども、でもそれほど一人でいるときには気にはならない。正確に言うと、何を食べようかなあと思うことになる。

 ようするに、近い将来に何かしらの食事が出来るのではないか、という見込みさえあれば、むしろその空腹を満たすことが楽しみで、別に「空腹な状態」自体をきらうことはない、というのが私の感じ方ということなのだろう。何かを食べられる見込みがなさそうなときは、さすがにちょっといやだ。

 ただ、どうも食べられる見込みがあろうとも、「空腹な状態」それ自体を許せないということはあるようで、そういうものなのだなあと感じ方の不思議を思う。映画の『犬猫』で不機嫌なときはお腹が空いてるときなんだよね、って話があって、あれはそれだけが不機嫌の理由ではなかったような気もするけれど、でも、不機嫌の理由として「空腹な状態」というのがあるのだ。

 このような感じ方のちがいが、何を原因としているかはわからないし、それほどわかりたいとは思っていないのだけれども、そういうちがいの色々に、私たちはわりと気づいていないのかもしれないなあとも思う。