原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

Twitter考

「君は君だ。それ以外の、何者でもないじゃないか」
  「それで人を説得したつもりになっているのかな?」
 「そういう君は、そう言えばカッコイイとでも思っているのかい?」

 以前はほとんど眺めているだけだったTwitterに、わりに最近ひんぱんに書き込む*1ようになったのだけど、書き込めば書き込むほど、なんだか息苦しいような気持ちになってきた。日記やブログでは感じなかった息苦しさだ。これはなんなのだろう。
 これまでのTwitterの使い方は、基本として他の人たちのつぶやきをのんびりながめるような使い方で、そこには“自分”というものはあまりなくてよかった。とすると、逆に頻繁に書き込むようになった今は、そこに“自分”というものが発生している──ということなのだろうか。しかし、それでは日記やブログとの違いが説明できない。
 日記やブログとの違いということで考えてみると、Twitterのポイントは「自分の書き込みを読み返してもおもしろくない」ということのように思える。ようするに短すぎるってことなのかもしれないけど、Twitterという場の要請してくる文章の「カタチ」が、私が書きたい文章には、あまりそぐわないということなのかもしれない。Twitterの環境は、強制的な一人称になる……というか、日記やブログの文章とはやはり大きく違っている。直感的に書いてみるけど、あのツールには「今」しかないのだ。ゆえに、「未来」のような、脱文脈化された時間から読み返してみても面白い文章にはならない*2。正確に言えば、なりにくい。
 日記やブログは、リアルタイムで読まれることをあまり想定しないゆえに、記事同士の間に、同一の自意識を持たなくて済む。読み返してみても、「これを書いたのは自分」という意識は薄いし、「そういう考え方もあったのか」と思うときさえある。しかし、Twitterは読み返しても読み返しても自分しかいない。延々と続く自意識は、それだけで悪夢だ。Twitterは、おそらくうまく使わないと、自意識を延々と強化することにしかならなくて、拡散的な思考を生まない。
 リアルタイムに他者の意見に触れ、擬似的なコミュニケーションの中で拡散的な思考を実現できる人には、おそらくTwitterはいい装置なのだろう。ただ、私にとっては意識のメインにはおけない。あれは危険すぎると思う。

*1:Twitter的には「つぶやき」。しかし、よくよく考えてみれば、掲示板などにはなぜ「書き込む(カキコ)」という動詞が採用されたのだろうか。一方ブログについては「投稿する」「ポストする」のような動詞はあるにはあるけれど、一般的に使われる動詞がついに生まれていないようにも思える。前にも言った気がするけど、はてなダイアリーなど、投稿のためのボタンは「保存する」だ。「保存」するて!

*2:「面白い」の判断基準は私です。