原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

「企画書をいっぱい書くとか、コピーを何本も書くって、「走り込み」と似ているようで、まったくちがいます。」

 ほぼ日刊イトイ新聞(2010/1/14)より、糸井重里の言葉。 

 この「走り込み」のマネをして、
 昔は、「キャッチフレーズを100本書け」だとかね、
 そういうことを教える「先生」がいっぱいいました。
 100本も書いたって、ことばの順列組み合わせを、
 手間ひまかけてやるだけになっちゃうんだから、
 なんにも上達なんかするわけないんですよね。
 それよりは、たとえば、
 「3つの視点から、商品をよく見てみよう」
 なんてことをゆったりと考え続けたほうがいいでしょう。
 でも、そういうほんとに有効なことよりも、
 「ぜいぜい、はぁはぁ、100本、書いたぜぇっっっ!」
 みたいなことのほうが、やった気になれるんですよね。
 企画書をいっぱい書くとか、コピーを何本も書くって、
 「走り込み」と似ているようで、まったくちがいます。
 
 「とにかく走れ」と同じように有効な力量の上げ方、
 なにかあったら、いいだろうなぁと思います。
 簡単にはわからないけど、考え続けたほうがいいですね。

 なんでもかんでも、とにかく「数」だ、という思想はわりにあって、“目に見える量”が尊ばれることは多い。それはもちろん、端的な「わかりやすさ」がそうさせているのだけれど、数がなければ駄目だ、と思いこまされている面もあって、ここで指摘されているようにそれがただの「順列組み合わせ」になっているんじゃないの? というのはそれを相対化する大事な指摘だと思いました。
 「量をやればいい」というのは、もっとも単純な経験主義で、ようするに「どうすれば力がつくのか、っていうメカニズムはわかんないけど、たくさんやってればそのうち力もつくんじゃないか」ってことじゃないかと思うんですけど、たしかにそれで一見できるようになるかもしれないけれど、その次の応用問題でずっこけるということもある。
 「かけ算千問やった!」って子が、次の割り算ですっころぶ、ということはたぶん往々にしてよくあることで、一方で、かけ算は百問くらいしかやってないけど、その理念はよくわかった、って子が、割り算をすいすい進む、ということもあるだろう(かけ算とか割り算とかは比喩です)。単純な経験主義は、思考という面からすれば“楽”なのだろうと思う。
 量をやらなければ身に付かない、ということもあるのだろうから、単純な経験主義の全てを批判することはあやういわけですが、ただ、それが楽をする方途になってはいけないのだろうと思いました。