原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

ブギーポップを読み直す(4)

ブギーポップ・オーバードライブ 歪曲王』

[asin:B00QWGZ2YU:detail]
 最終巻になるかもしれなかった巻。HeartbreakerⅡ。『ブギーポップは笑わない』の直接的な続編であり後日譚とみてもいいのでしょう。登場人物も、新刻敬・田中志郎・竹田が再登場。『パンドラ』ではちょい役だった羽原健太郎も中心人物として動きます。HeartbreakerⅡの名に違わず、それぞれの登場人物たちがそれぞれの形での“失恋”をしていく物語。

 また、このあとの巻でも「だいたいこの人のせい」として便利に使われてたような気がする合成人間・寺月恭一郎も初登場。

 主題として登場しているのは、ブギーポップと同じく二重人格的に現れる“歪曲王”。田中志郎の中に芽生えたそれは、人の心のうちにある苦しみを「黄金=輝けるもの」に変えることを試みます。

「その苦しみはもう消すことはできない。その苦しみこそがあなたの心の中心なのだから。だから──だからあなたはそれを、苦しみを、心の中から消し去ってしまいたいと願うものを、逆に黄金に変えるようにしなければならない──」

 ブギーポップが特に“突破”を志向していないのに対して(むしろ“遮断”している)、歪曲王は“突破/人の心の歪みをお仕着せではない形で自発的に治させる”を志向しているわけですが、最後の2人の対峙の中で、ブギーポップはその歪曲王の起源が「絶望」にないことを察知し、敵対することをやめています。ここで示唆されているのは、ブギーポップが「世界の敵」と見なすのは、ただ単に「突破」を志向しているか否かではなく、「絶望」に裏打ちされた「迷わない者(迷えなくなった者)」なのかなあ、ということです。対峙の際にも例としてあげられる、水乃星透子のような。

「確かに存在している。その道以外に進む場所も未来もない、という者たちが。他の選択肢などないという事実が、そのことが彼らにとって幸福なのか不幸なのか、それすら定かでない。あるいはそんなことは彼らにはどうでもいいのかもしれない。彼らはある種の可能性が形になってこの世界に顕れただけの、主体のない抽象存在に過ぎないのかも知れない。ぼくと同じように。だが──」

 ブギーポップはそれ自身システムの一部なので、そのシステム自体に「正しい/正しくない」という基準があるわけではなく、まさに自動的に条件に合う存在を遮断しているわけですが、その条件がわりとわかりにくいところがあります。歪曲王との対峙(と歪曲王を見逃すこと)は、そういうブギーポップのあり方を捉える上での重要な場面です。たぶん。

 ところで、ブギーポップが負傷するシーンは、以後出てくるのかな。記憶の限り、なかったような気もするけど、読んでいない巻以降でそういうこともあるのかもしれません。