原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

新海誠『小説 言の葉の庭』

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 2013年に公開された映画の小説版。新海監督本人によって書かれたものです。

 映画版は46分の中編で、基本的には主要な2人の人物の不器用な関わりを描いたものでした。小説版では、映画版において断片的に描かれていた色々なものへの意味づけが行なわれています。映画版にあった台詞はほぼ忠実に小説版でも用いられていて、小説版を読んだ上で映画版をみるとそれぞれの場面の意味合いが変わってくるようになっているのがおもしろい。

 たとえばそれは、主人公である孝雄の兄、翔太。映画版ではさほど重要な役割をしない兄ですが(孝雄の靴が自作であることや、その将来の夢を間接的に示すくらい)、小説版では一章分の視点人物として、その背景が描かれます。小説版を読んだあとに映画版を見直してみると、「そういう人だったのか、この人」としみじみ*1。本当に細かいところまで拾ってあるので、映画版だと一瞬だけ映ったあのシーン、みたいなものにこれでもかと意味が付与されていきます。

 目次は以下の通り。多くの章では孝雄もしくは雪野が視点人物になっていますが、結構他の人たちの視点も出てきます。

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 そういう意味で、読んでいて楽しい小説ではありますが、私の好きなタイプの小説ではありませんでした。つまり、それは文章全体を登場人物の気分で埋めてしまうタイプの小説になっている、ということです。この点については、作者自身があとがきで次のように述べています。

 書くことが楽しかった。アニメーションでは出来ないこと、難しいことを、存分にやろうと思った。たとえば、「彼女は迷子のような微笑を浮かべた」という文章を書く。そのたびに、どうだ! と僕は(アニメーション監督である自分に向けて)思った。どうだ、これは映像では表現困難だろう。

 まあ、そうなんですけど、小説でも「迷子のような微笑」はあまり面白くないと思うんですよね……。個人的な感覚では、もう少し表現を割らないと、視点人物の思いとそれが見ている世界とがべったりとひっつきすぎて、息苦しくなります。

 もともと新海監督の志向性は、映像全体を、登場人物の心情の表象として制御しようとするところがあるとは思うのですが、映像の場合は、そういう意図を振り切って〝映像自体〟が、物語とは異なる存在感を放ってしまっていることがある(いい意味で)。

 ところが、小説版ではそのような「意図に対する裏切り」が発生していないので、それが、統一感を作るとともに、息苦しさを生んでいるように思いました。もう少し、登場人物たちがよそ見をしてもいいのにな、と思うのですが、とはいえ、この物語の登場人物たちはよそ見ができないがゆえにこうなってる、みたいな人たちでもあるので、それはそれでいいのかもしれません。

*1:ただ、映画版は映画版として解釈しうるため、別に小説版の「兄」像をそのまま投影しなくてもいいのですが。