原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

柴崎友香『フルタイムライフ』(再録)

 柴崎さん芥川賞記念で、過去の日記から再録。2005年7月21日ですってよ。9年前って。

[asin:4309409350:detail]

 目次を開いてみると、「五月」から「二月」までが章タイトルとして並んでいる。誰もが思うことなのだろうけれど、なぜ「四月」と「三月」がないのだろうと思った。そうすればちょうど1年。区切りが良いのに、と。

 この小説は、「五月」から「二月」という区間を、1ヶ月につき1日切り出して見せている。つまり、五月のある1日、六月のある1日、という具合に連鎖していて、決して日にちをまたぐことがない。

 帯には、「〈はたらく生活〉をはじめて体験する女の子のゆるやかな毎日、恋を描いた長編小説」とある。なるほど、確かにこの小説は「恋」を描いているのかもしれないけれど、それはこの小説のほんの一部でしかない。この「ほんの一部」なのはたぶんすごいことで、「恋」に触れない部分では、「恋」の小説の香りはまったくしない。つまり、「恋」の場面と「はたらく」場面には、ほとんど連続性がなくて、読者としては「あ、そういえばこの人、恋してたね」という感じになる。

 考えてみればこれは当然のことで、人は四六時中同じことに関わっているわけにはいかない。頭から「恋」のことをすっかり消している時間もあるし、会社での失敗が延々と後を引くこともない。この小説にドラマがないかといえば、それはあるのだけれど*1、そのドラマが小説全体を包んでしまわない。生活は物語化されず、ただ生活として淡々と続く。

 そうした淡々とした生活を支えるのは、次のような身も蓋もない主人公の感想だ。

 唐突に常務が言った。
「前はそこをプロ野球の二軍が練習に使ってたんだよ。そういうとこって子供のファンクラブみたいなのがあって練習試合なんかが見られるんだけど、うちの息子も通っててね。」
「へえー、そうなんですか」
 わたしはまだ年の離れた会社の人と話すときの語彙が足りなくて、また同じようなことを言ってしまった。(pp.123-124.)

 お昼休みの時間だからコンビニエンスストアに出入りする人が多く、雨も強くなってきたので、隣の店のテントの下へ入った。
「まあ、それなりにって感じかなあ。どうですか?」
「わたしも、そんな感じです」
 仕事じゃないから余計に話すことがない。会話は、途切れたという印象だった。(p.143)

 保坂和志は、柴崎友香との対談の中で、「小説の世界が主人公の心情で染まっていない」と評した。そういった面から考えれば、「四月」と「三月」を書いてはならなかった理由も、自ずと明らかだろうと思う。「四月」と「三月」は、生活を区切ってしまうのだ。

 1年、という区切りは、淡々とした日々の生活を、「1年間いろいろありました」という物語に回収してしまう。「四月─入社式」「三月─異動/退職の季節」。それは「この1年でわたしもずいぶん変わったなあ」という主人公──喜多川春子の心情で世界を染め上げてしまうことにもなるし、日々の生活にあたかも「区切り」があるように錯覚させるような効果を持つ。それは、「フルタイムライフ」という題名を持つこの小説の望むところではないだろう。

 この小説は、唐突に始まり、唐突に終わる。日々の生活に「導入」はなく「オチ」はない。「導入」と「オチ」があるのは、「物語」なのだから。

*1:人には誰にでもドラマがある。