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原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

柴崎友香「春の庭」

文学界 2014年 06月号 [雑誌]

文学界 2014年 06月号 [雑誌]

春の庭

春の庭

 『群像』での「パノララ」の連載はときどき見てて、単行本にまとまったら読もう、と思っていたのでしたが、6月号の『文學界』に中編が掲載されていたのには気づかず、芥川賞の候補になっているのをみて存在を知りました(http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140620/k10015362341000.html)。あ、『きょうのできごと』の続編についても日記に書こうと思ってたのに書いてなかったんだった。

 図書館で読んだためすでに手元にはありませんが、やや不確かな記憶とメモを使って書いてみます(単行本になったら買うよ)。

 この小説は、「物語」として駆動する話というよりは、世田谷という土地と家とを書いたものでした(そして、家の死と父の死と)。柴崎さんの小説の常道ではありますが、特に序盤は土地に関しての綿密な描写が続きます。

 ぐるりと囲む白い塀には、左官のこて跡が鱗模様を描いている。路地からは建物の二階しか見えない。左側にベランダ、右側には縦方向に開く小さめの窓が二つ。どの窓も、枠は屋根と同じ赤茶色に塗られている。(p.57)

 小説の文体はとても抑制的で、「太郎」という中心人物を中心に序盤から中盤にかけては展開されていきます。どう抑制的かというと、「太郎」という人物の内面がそれほど熱心には描写されません。「三人称」的な視点の描き方によるものではありますが、これまでの柴崎さんの小説に比しても、小説内のできごととの距離を感じます。

 路地は中心に向かってV字にへこみ、コンクリートの板が並べられていた。暗渠の蓋だ。以前テレビ番組で、埋め立てられた川の跡をたどっているのを見て以来、興味を持った。近所には埋め立てて緑道となっている道もあれば、地図で見ると川だったことが容易に想像できる蛇行した小道もあった。しかし、その細い路地を出ると、コンクリートの蓋も途切れる。地図を見ても、その付近に川らしき痕跡はない。下水に統合されるのだろうと思っていたら、後日、少し離れたところに角度のずれた辻があることに気づいた。(p.60)

 この距離感は「太郎」と他の登場人物たちとの会話でもあまり変わることがありません。登場人物たちはちょっと奇妙で、しかし、特に大きな事件を起こすでもなく、淡々と物語世界に現れてきます。

 このような作品の雰囲気ががらりと変わるのは終盤のこと。突如、語り手として「わたし」が登場します。

「それな、裏の家やねん」
「へー、そうなんや」
「もっと驚けよ」
「写真に写ってるってことは、その家がどこかにあるのは当然やん」
「ほら、そこ」
 太郎が指さしたベランダの窓に、わたしはソファの上を歩いてたどり着き、外を見た。ブロック塀にも木の枝にも積もった雪と、まだ横殴りに降り続いている雪の向こうに、水色の家の角が見えた。

 この「わたし」は「太郎」の姉なのですが、彼女が語り手として姿を現した途端に、物語世界はぐっとできごととの距離感を近くします。それまでは、関西弁を使っていなかった「太郎」も、関西弁を話し始めた途端に、それまでの、何を考えているのかよくわからない人物から、生身の人物へと変化したかのようです。

 いくつかの評を読んでみると、この視点の変化については、あまり好意的な解釈がないようにもみえました。特に『群像』の創作合評では、諏訪哲史さんが何か書いていましたが、よくわかってないようにみえました。

 それらの評では、この視点を「三人称」から「一人称」への変化と捉えていたように思うのですが、記憶だけで書くと、そうではないのではないか、というのが私の感想です。それを感じるのは、たとえば次のあたり。

 わたしが帰った次の日、太郎は、賃貸情報サイトで部屋を検索した。そろそろ、次の場所を探さなければならなかったが、どの街のどんな部屋に住みたいか、なにも思い浮かばなかった。(p.101)

 ここは、一人称の語り手である「わたし」が直接みていないはずの太郎の様子や、太郎の心中が語られています。一方、語り手が「太郎」とは異なる知識を持っていることは序盤でも明らかで、次の場面では「太郎」は知らないことを語り手が知っています。

 門扉は黒い金物細工で茨を象っており、それ越しに見える玄関扉の脇にも植物モチーフのステンドグラスがはめ込んであった。太郎には区別がつかないが、菖蒲やアイリスの類い、群青色と緑色と黄色で構成されている。太郎の部屋からは、この家の、玄関とはちょうど反対側の部分が見える。(p.57)

 こうしてみると、「わたし」登場以前についても、実はその語り手は「わたし」=「太郎」の姉だったのではないかと思えてきます。序盤から中盤の距離感は、語り手である「わたし」が遠くにいるがゆえであり、終盤の距離感は「わたし」が「太郎」に近づいてきたからではないかと。この小説は、一貫して姉の視点から語られつつ、しかし、その語りには「太郎」や「西さん」やそのほかの人たちの思いがすべりこんできている。

 このような「語り手」の設定は、ある時期から柴崎さんが取り入れている「ぶれ」であって、ふいに他の人の考えていることが飛び込んできたり、時間の感覚が飛んだりします。この日記では『虹色と幸運』のときに触れていました。

 この、文の途中で視点が変わるということの運動性は、小説以外の媒体ではかなり表現するのが難しい──というか、できるのかどうか、私にはわからない。柴崎さんは、以前、浅野いにおとの対談だったかなにかで、小説はどうしても線状(順番)にしか書けないから、マンガや写真にように一気に色々なものをみせることができない、ということを話していたように思うのだけど、この一文の中で視点が移動していく方法は、話の内容とかそういったもの以前の文体レベルで、世界に“色々なもの”が混在していることを、運動として示している。

柴崎友香『虹色と幸運』 - 原子メールの届いた夜に

 この「視点が飛ぶ」(ぶれる)ことの意味はもっと考えないといけないと思うのですが、ともかく読書体験としてとても楽しい。「春の庭」という写真集をめぐって「西さん」という登場人物が居酒屋で語る部分があるのですが、そこにはその楽しさが濃縮されています。

 もう一度読み直すときは、「わたし」が語っているものとして頭から読み返してみたいところです。

[参考]
 http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20140620
 

虹色と幸運

虹色と幸運