原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

だいたい? だいがえ?

はじまりの記事

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「代替」を「だいがえ」と読む奴らがいることに耐えられない
「代替」は「だいたい」に決まってるだろう。
「それは知ってるけど、音だけだと相手が誤変換するかもしれないから」とかいう言い訳も通用しない。
 文脈上、「代替」が「大腿」「大体」「大隊」と紛らわしい場合なんてほとんどないだろう。(後略)

 難しい。人それぞれ、身を置いていた環境や触れてきた言葉によって、言葉に対する感覚は異なるものとして形成されていると考えられそうですが、こういう場面ではその感覚の相違が顕在化してきます。

続々と表明される違和感

 ブックマークコメントには、色々と「違和感」を持つ言葉遣いの例が表明されています。いくつかリストアップしてみるとこんな感じ。

・首長を「くびちょう」と読むのが、解雇の長みたいで嫌だ。
・「言わざる負えない」「永遠と繰り返される」「一様試してみた」「やらさせていただく」辺りが耐えられない
・同じような感じで、じゅうふくも気になる…
・まぎゃく【真逆】も大辞泉に俗語として載っている時代だがこれは受け容れがたい。
・「初めて」を「始めて」と書く人がいることに耐えられない
・「1時間毎(まい)に」って読む人も物凄く気になる

 私の感覚だと、「くびちょう」はちょっと違和感があるものの、「しゅちょう」は「主張」と混じってややこしいからかなあ、という気分。「重複」はもう自分自身「じゅうふく」の引力から抜け出せないし、「真逆=まぎゃく」も使ってる。「一時間毎(まい)に」ははじめて聞きました。

 これらの感覚を「正当」「非正当」だと根拠づけるのも難しい。一見して「伝統的」にみえる用法が、しかし実は「伝統的」ではなかった、という例などたくさんありますし、では本当に「伝統的」だったからといって(たとえば明治初期から使用されている言い方だからといって)、「だからこそ正当なのだ」と言い得るかというと、そうでもないでしょう。

 参照: 天下の朝日新聞が「ら抜き」言葉はダメだと思う | More Access! More Fun!

目的相関的言語使用

 個人的には、このあたりはゆるやかな方がいいのではないか、とは思っています*1。難しいのが、言葉というものが「人それぞれ」のものでありつつ、コミュニケーションメディアとして使わざるをえないものである、ということですが、まずは、その使用場面において「伝わるかどうか(目的を達成することができたかどうか)」ということをひとつの基準とするしかないのではないか*2

 書籍や映像など、時間や空間を越えて伝達しなければならないメディアでは、ある程度広く共通理解される言い方(書き方)を使った方が、目的は達成されやすいでしょう。一方で、私的なコミュニケーションの場では、そこまで厳密にする必要もない(むしろ「代替=だいたい」は、「代替手段」や「代替機」などの熟語で使わない限り、ぱっと音だけで理解できる人が少ないと想像できるので、使用を避けた方がいいかもしれません)*3

 ただ、「それってそんなに場面に合わせてスイッチできるの?」と言われると……どうなんでしょうか。少なくとも、自分が使っている言葉が、「どこかの誰かにとってはわかりにくい言葉かもしれない」という意識は必要かもしれません。

言語使用の行動考察

 このあたりの話題は、個人的には、「じゃあなんでそういう風に言葉を使うんだろう?」という方向にふったほうがおもしろくて、たとえば、

代替の話 - (t.u.k)

の考察はおもしろかったです。「価値観」を「価値」と手書きで書く人も結構見かけますが、たぶんその背景には「観る」というより「感じる」ものとして、「かちかん」という音の連なりを意識する、という感覚があるんだろうなあ、とか。

[参考]
 ・「やさしい日本語」とは

「やさしい日本語」は何を目指すか: 多文化共生社会を実現するために

「やさしい日本語」は何を目指すか: 多文化共生社会を実現するために

*1:ぼんやり想像するのは、自分が日本語の母語話者じゃなかったらどうだろう、ということです。

*2:逆にいうと、情報をやりとりする、という目的での言語の使い方に審美的な要素をあまり入れない方がいいのではないか、ということです。文芸の言葉はもちろん別です。

*3:言い換え例は「やさしい日本語」など試みがあります