読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

移動するということの「責任」について

 少し前ですが、次のようなニュースがありました。

充電レーンに光る車線。スマートハイウェイプロジェクトがすごい! | roomie(ルーミー)

 これ、すごいなあ未来だなあと思うのですが(しかしいくつかのアイデアはARで実現できそうな気もする)、この方向ならもう道路にチップとか埋め込んで自動運転にできないのだろうか……という気もします。Google Carとかよく話題にはのぼりますが、どうしても「車」側だけの仕掛けだと不安が拭えないと思えてもしまうので、「車」と「道路」の両方で自動運転できるように、と。

 ……と、そんなことを書こうとしてたのですが、検索して次の記事を読むともう車だけでいいんじゃないか感があります。

Googleの自動運転カーほぼ完成、最初のドライバーを乗せて手ぶら走行中のムービー公開 - GIGAZINE

 はてなブックマークで指摘されている「呼べば車が来るということ」というのも、そういえばそうだ。タクシーとかいらなくなるのかな。

 で、以前にこういうことを考えていたときに、「結局それは運転して人を傷つけてしまうというリスクから逃げているということではないか?」という指摘を見たことがあって、そうか、とも思ったのです。確かに、「人を傷つけたくない(+自分が傷つきたくない)」と私は思っている。それはもっと言えば、「負債を抱えたくない」という思いなのでしょう。

 ただ、「移動する」という、本当に最低限の行為に人はそれほどのリスクを追わなければならないのか? とも思って、「移動する」だけで一生に大きな負債を追いかねない、という時代はあまり長く続いてほしくない。移動する、ということに、人はどれほどの「責任」を負っているのか。負わなければならないのか。何度も書いてるように思いますが、「自動車」というのは、個人が扱うにしては大きすぎる力だと感じています。