原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

土地に記憶する

 久しぶりに、子ども時代を過ごした町を歩いている。

 相変わらずアップダウンの激しい、迷宮じみた土地を歩いていると、そこここに、子どものころの記憶が落ちている。この道は、ミニ四駆を走らせながら歩いた道。この崖は、グミを食べるために木のツタを垂らして下りていた崖。この公園は、あまり使う機会のなかった「遠出してくる」公園(実際にはそう遠くない)。

 もちろん、町の姿は変わっていて、開発されているところも増えてきた。しかし、明らかに計画的に作られていないこの町は、多少開発の手が入ったところで元々の混沌とした姿を覆い隠すことはできていなくて、それだけで楽しい。

 町にみる記憶は、もちろん私の脳だかどこかに仕舞われているものだけれども、しかし、これらの記憶はこれらの土地を歩かずに蘇ってくるものではなくて、写真などでも部分的には蘇るのだろうけれど、やはり、そこを歩くことによって再生できる記憶だ。これは土地に記憶している、ということではないか。

 そして、落ちている記憶は、実際にそこで経験したものだけでもない。「あ、この公園は北村薫の『空飛ぶ馬』を読むときに使ったな」ということを今回は思い出して、それだけでうれしくなった。『空飛ぶ馬』は、大学生のころに読んだのだから、子どものころに読んだものではなく、そして、ここに住んでいたときに読んだものでもない。

 しかし、確かに、その本を読んだときに、私はこの土地のことを思い出し、そして、この土地に(もっといえば公園の前の、入ったことすらないある家に)『空飛ぶ馬』の中に出てくる「ピアノの家」を重ねて(たぶん「赤頭巾」というエピソードの中に出てきたものを)記憶していたのだった。

 土地に住むとは、ただその物理的に住んでいる時期だけを指すのではない。私たちは、一度住んだその土地に、遍在しながら住み続けるのではないか。

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