原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

1年という物語

http://distilleryimage6.s3.amazonaws.com/038dadb452e511e2b92122000a9e0727_7.jpg
 2012の最後の朝であることにふと気づき、それは感慨深いようでもありながら、「で、それがどうしたの」的なことでもある。

 毎年思うのだけれど、今日と明日は別に物理的に大きく変化するというわけではなくて、1日と1日との間に、1時間と1時間との間に、1分と1分との間に、1秒と1秒との間に、すっと線が引かれているというわけではなくて、どこまでも時間はのっぺりとつながっている。

 けれど、やはり今日と明日との間に「何かが変わる」という予感は存在していて、それは子どものころにはもっと強く感じていたような気がするけれど(なぜか元日という日の朝には、澄んだ空気を感じる)、まったくなくなってしまう、ということはない。

 1年、という単位には必然性がない──ということはなくて、地球が公転する限りにおいて、それは大きな意味を持つのだけれど、しかし、素朴な実感として、1年という単位は直観的に人が捉えられる時間単位ではないように思う。

 とすると、私たちは「1年」という物語を皆で共有しながら生きている。そして、それが「変わる」ということに、大きな意味をみる。「1年」という単位は、私たちが一連のできごとを意味づけるのに適した時間単位なのかもしれない。

 とすると、将来人類が火星に住むことがあったとして、そこで人類は火星の「1年」を「1年」として認定するのだろうか? 火星の公転周期は687日らしいので(火星の自転周期が地球とほとんど同じって初めて知った)、その単位で「1年」を捉えるように物語は作り替えられるのだろうか? そこでの人の時間感覚は、地球とは異なってくるだろうし、そもそも暦によっても時間の感覚は異なるのだろうけれど。