原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

接続詞「確かに」

 接続詞「確かに」は、それが段落の冒頭に用いられる場合、後続する段落で、当該の段落で述べられたことが「反論」されることを予感させる接続詞である。と、これまでそう思ってきたのだけど、最近、たまにこの予感をハズされることがある。つまり、「確かに」の段落で述べられたことが、そのまま採用されてしまう。

 こちらは、反論くるぞー反論くるぞーと思って読んでいるので、それがこないとがくっと肩すかしをくらうわけで、これもスキーマの誤作動というものなのだろうか。似たような接続詞には「もちろん」があって、これも段落の冒頭で使われると「譲歩」のニュアンスが出る。「もちろん……ということはあるだろう。しかし──」という展開だ。けれども、これも「しかし──」の部分が抜け落ちているということはよくあって、そこでも空振り感が起こる。

 とはいえ、自分が文章を書いているときにそこまで意識しているかというと、仕事の文章を書くとき以外は全然そんなことはなくて、つまりは人のことは言えないのだった。ここで重要なのは、そういった接続詞を文章展開の予兆を感じるサインとして使う、というのはいつの間にか身についたふるまいなのだけれども、そのふるまいはいつでもどんな文章でも適用できるというわけでもなくて、ときに応じては調整しながら使わなければならないようだ、という当たり前っぽいことなのだった。

 ここらへんのことはぼんやりと考えていたのだけれど、サンプルを集めておくとおもしろそうなので、これから予感がハズされたら「予感ハズされたサンプル集」として収集していきたいと思います。