原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

『ねたあとに』、文庫化。

 長嶋有の『ねたあとに』が文庫化された。単行本も持ってるけど、文庫の大きさで読むのも楽しい本だと思うので買いました。模範的な購買者と呼んでほしい。

 解説はお父さんの長嶋康郎が書いていて、その「傍点」の使い方に親子をみる。というか、確かどこかのインタビューで傍点の使い方は父の影響を受けている、ということを言っていた記憶があって、その使い方がそっくりだから楽しい。

 解説の中で、次の部分は特に「あー」と思った。

 観察(観測)は久呂子さんが山に来た時だけに限られ、つまり定点観測であるのだが、彼女が居ない時(ねたあと)にもそこがあることが分かるのは、久呂子さんが同じ場所に三回繰り返しやって来るからだ。(p.394)

 この小説の中では、三回の夏がやってくる。こういうふうに書くと、その三回の夏にはそれぞれの成長があって──みたいに書きたくなるけれど、ない。まったくない。前の夏がぷつんと(ねるように)終わり、そしてまた、次の夏がなにごともなかったかのように始まる。

 こういうふうに書くと、さらに「終わらない日常」ということか、という気分にもなってくるけれど、しかし、そうでもない。前の夏にいたある人は、次の夏は来ていなかったり、逆に、新しい人が最後の夏に特に何の伏線も持たずに現れて、一緒に遊ぶ。「同じメンバーで一緒に遊び続ける」という話でもなくて、前の夏と同じような夏が繰り返しやってくるけれど、それは変化がないというものでもない。

 単行本で読んだときにも、その感覚の面白さについて色々考えたけれども、上の解説の中の「同じ場所に三回繰り返しやって来るからだ」という言葉をみて、あらためて、「三回」という回数によって、定点観測が、「二点」の比較ではなく、「三点」の比較になってることに気づく。

 「二点」の比較だと、そこにあるのは「一年目」と「二年目」の差異になるのかもしれないけれど、「三点」の比較だと、「一年目」と「三年目」には共通しているのに、「二年目」にはこれがない、とか、そういう「まっすぐじゃない感じ」が生まれる。去年のこと、おととしのこと。それがごっちゃになって三年目を迎えるからこそ、この小説は読者にとっても記憶となる、ということを考えました。まだ文庫版は読んでいないので楽しみです(初読の記憶もあるのでなおのこと)。

 電子化が進んだら文庫ってどうなっちゃうんだろう、とかそういう話を書く予定だったけど、なんだかどうでもよくなりました。