原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

新聞配達の記憶

 みぞれまじりの雨が降る朝、バス停に向かう道に、ビニールに入った新聞が一部落ちていた。おそらく、新聞配達の途中で自転車のかごから落ちたのだろう(歩道だったので)。電子化が進めば、こんな寒い日に新聞配達しなくて済むのにな、という考えが頭をかすめるものの、しかし、それは一方で新聞配達という仕事によって生きていくことを難しくすることでもある。

 中学生のころ、2年間くらい、新聞配達の手伝いをしてたことがある──ということを普段はすっかり忘れているのだけれど、ビニール袋に入った新聞をみて、そして、このみぞれまじりの寒さの中で、ありありと思い出した。朝、暗い中もぞもぞと起き出して、新聞配達に出かけていくめんどくささ。結局、現在に至るまで我慢強さというものがまったく身についていない私にとって、あれは結構な辛さだった。特に、雨や雪が降っているときの最悪な気分は思い出しただけでうんざりする。レインコートにあたる雨の匂い。それは、とうていいい匂いではない。

 とりわけ思い出すのは、お正月の新聞の分厚さで、あれはポストに入りにくい。横幅の広いポストの家は好きだった。新聞を折り曲げなくても入るし、その入る感覚もいい。だが、たまに「これに新聞を入れろというのか……」という家もあって、どうしたものかとなる。ビニール入りの場合、無理に入れようとするとやぶれてしまう。

 そういうあれこれはもう15年以上前の記憶で、そんな記憶がまだ身体感覚として残っていることに驚く。記憶ってもっと摩耗するものではなかったのか。いや、色んなことは忘れているけれど、ひょっとして一部の記憶というのは、数十年規模で残り続けるものなのかと思うと、今このときは記憶に残る今なのか、それとも摩耗する今なのか、と思いを馳せたくなるかといえば、別にそうでもなかった。