原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

柴崎友香『虹色と幸運』

 Web連載版を読んでいて、また、単行本が発売されたときにも読んだのですが、改めて読み返してみました。最後に少しできごとが起こりすぎているかなあ、という気もしますが(3人分の視点でそれぞれにできごとが起こるので)、おもしろかった。1年間を通して、1月ごとに描いていく形式は『フルタイムライフ』と同じです。

 この話は、30歳の三人の主人公の視点を飛び移っていくのですが(たまにふっと別の人にも飛ぶ)、30歳という年齢はだいたい今の私と同じくらいで、別にそれが同世代的な共感というのでは全然ないんですけど、「こういう風に生きている人もいる」ということをなんとなく不思議に思いながら読みました。

 同じ作者の『きょうのできごと』はだいたい23歳くらいの主人公たちで、それもほぼリアルタイムで読んでいるので、作中に出てくる主人公たちと同じような歳の取り方をしているのかもしれない。そう考えると、40歳になったときとか、50歳とか、60歳とか、そこまで生きていれば、そのあたりの年代の「主人公」を「同世代」として読む日が来るのかなあ、と想像します。いま、40歳とか50歳とか60歳の人とかは、「同世代」の小説として何を読むのだろう。

 作中でどきりとするのはこんなひと言。

 自分たちの会話も、隣のテーブルの他人が聞いたらどこにでもあるくだらない、聞き飽きたことなんだろう、と思った。(p.110)

 この作品の中に出てくる人たちは“特別”というわけではなくて、むしろ「嫌な会話」をしてる瞬間すらある。たとえば、次のような。

「茉莉香ちゃんって、あんな感じだよねー」
「うんうんうん」
 珠子とかおりは、誰がいちばん先に言うか待ちかまえていたので、すぐに頷いた。原田さんだけは、窓の外に見える白いギャラリーに視線を投げつつ、
「そうだねえ」
とため息混じりに言った。(pp.51-52)

 この会話は、特に価値付けをされずに投げ出されていて、読んでいる私はその直前に描写された、自然に自分の人脈を誇るような「茉莉香」の様子を知っているし、「茉莉香」に対して、いやだなあこういう人と思っている(それはそのときの視点人物である「珠子」と「かおり」の感想に引きずられているのだが)ので、この会話に共感しながらも、けれど、「この、当人のいないところで、若干悪口めいたことを言う」ことへのかすかな嫌悪感も感じるようになっている。が、その嫌悪感自体については、作中で特に焦点が当たるわけでもない。

 そういうもやんとしたものが、少しずつ、読み進めていく中で降り積もっていって、色々と考えながら読む小説でした。