原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

立食パーティ

 「立食」という言葉を聞いたのはいつのころだっただろうか。「たちぐい」ではない。「りっしょく」だ。おぼろげな記憶を掘っていくと、体験としては、母のパート先であったなにかしらの懇親会のようなものについていったのが最初だったように思うけれど、それ以前に「立食」という概念を知っていたかというと、どうもあやしい。

 食事というのは座ってするものだ、と思いながら成長するように、私たちの文化はおおむねできている。もちろん「たちぐい」はあるが、それはおおむね行儀の悪いこととして知られる(なぜかと言われると微妙だし、若い世代になればなるほど、「たちぐい」への忌避感は弱まるのではないか。その背景には、そもそも「たちぐい」に向く食べ物が増えてきた、ということもあるように思うけれど、それは鶏と卵かもしれない。あと、ここでは「立ち食いそば」とかそういうのは除外する)。

 そんななか「立食パーティ」というのは不思議なものとして登場する。なぜわざわざ立ったまま食事するのか。座ればいいじゃん。

 考えるに、立食という形式は、基本的には「社交」を目的とするときにとられるスタイルだ(たぶん)。入れ替わり立ち替わり、色々な人と話し、色々な集団に加わっていく(苦手だが)。しかし、そもそも「社交」という概念がなきに等しい子どもには、「立食」のメリットはあまりみえない。疲れるだけだ(私は「立ち飲み」というのがどういうねらいなのかよくわかってないけど、ふらっと立ち寄る感がいいんだろうか?)

 しかし、疲れるのは大人にしても同じことなので、適度に座れて立食的な機能を失わないようなスタイルはないものなのだろうかとときどき思う。そもそも立食パーティの適度な時間って何時間くらいなんでしょうね。

(そんなことを思って、書き終えたあとに立食パーティでぐぐってみたら、作法とかそもそもあまり食べるな、とか、なんかつらいことがたくさん書いてあったので調べるのを断念した。作法とかめんどくさいです!)