原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

ぬいぐるみのジレンマ

 ぬいぐるみは手元においてかわいがればかわいがるほどに摩耗していく……というのは、なんかうまいことすればそうでもないのかもしれないけれど、しかし、飾っておいたほうが良い状態で保たれやすいのは、たぶん確かだ。とすると、あまりさわらないほうがいいのだろうか……という判断にもなりうるのだけど、しかし、それではぬいぐるみを持つ意味がないではないか──と考えたところで、エリクサー症候群みたいだなと思った。

 今のそれは知らないけれど、昔のプラモデルはそれはそれは折れやすくて、手にもってばーんとかどーんとかしないほうがよいのだが、しかしついついやってしまって「折れたー」となる。これもぬいぐるみのジレンマのバリエーションと言えるが、しかし多くの子どもにとってプラモデルは飾りたい対象ではなかったのではないか。それはやはり手に持ってどーんだったのではないか。たぶん、ぬいぐるみも。

 さっきエリクサー症候群と書いたけど、エリクサーとの違いは、エリクサーは使っちゃっても新しいエリクサーが手に入ったらまあいいか、という感じなのだけど、ぬいぐるみはそうではない。唯一無二だ。エリクサー一本一本に我々は唯一性をみないが(それが死んだ仲間の残したアイテムとかだと別だけど)ぬいぐるみにはみる。プラモデルにはどうか? ぬいぐるみの唯一無二性よりは低いかもしれない。

 唯一無二といえばストラップもそうで、私は持ち物にストラップをしないのだけど、けっこうかばんとかにじゃらじゃらつけてたりするのをみると、「あれを落としたら哀しいのではないだろうか……」とまったくの他人のことながら、先行して心配してしまう。どうか、どうか、落ちませんように。