原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

あるいはスペースコロニーの中で

 富野由悠季の2001年ころのものらしいインタビューに、次のように一節があった。

 アニメの中だから、簡単にああいう居住空間ができました。僕の場合、その中でセル絵といえどもかなり肉体ってものを想定したキャラクターを動かしてきました。そうすると、こういう人たちが本当にスペースコロニーの空間の中で我慢できるのか? 「こいつら、我慢しないよね」というのが見えてきたんです。それが見えてきたとき、具体的に自分たちの暮らしを考えられたんです。

 たとえば、最近は宇宙食におにぎりを持っていく。チューブに入った宇宙食とかではなく。そういったものは科学者、技術者っていわれている人たちのマニアックな、おタクな視点で開発されたものだったからです。つまり生きてる体とか動物ってのは、そんな生易しいもんじゃないんです。逆に不自由かも知れないけど、人間というのは強欲な動物で、いろんなものを一人の人間に取り込むことができるんですよ。せいぜい5、6人の科学者が宇宙食ができるといっていても、肉体というものはそんなものに屈服させられるような生易しいものではなかったわけです。肉体には業とか欲とかってものがつきまといます。僕はマイナスとは思わないけど、業という言い方はマイナスに聞こえるかもしれない。けれど、そういうものまで取り込んで、ごく普通に馬鹿な恋愛をしたり、恋愛しないでマスかくだけでいいという生態があり、科学技術を発達させられるというものもあって、その幅というのは、とんでもなく広いんです。一人の人間でもそうなんですよ。それが10人集まったら、百人集まったら、「そんな密封空間の中で暮らせるかよ」って、絶対に生体が拒否します。

『機動戦士ガンダム公式百科事典』オフィシャルサイト

 宇宙空間のイメージってどこで培われたのだろうかと思えば、それはアニメーションでしかない……ように思う。いや、正確に言えば、私はガンダムについては小説から触れているのだったが、いずれにせよ、SFの中で、どこか“息ができない”場所としての宇宙、というのを疑似体験してきているのが、私たちのように思う。それは、実際に、スペースシャトルなどから送られてくる映像以上の、イメージとして、ということだ。
 ガンダムにおけるスペースコロニーというのは、基本的には脆い印象があって、作劇上の都合でしょっちゅう外壁が壊れて空気が抜けてしまったり、あるいは逆にガスを注入されたりする。それは、この地球のなんでも吸い込んでしまいそうな無限の安定感とは、対を為すものだ(だからこそ、環境問題のようなことが起こるのだろうけれど)。
 その、偽りの大地の不安定感を、もはや擬似的な身体感覚として私たちが持っていることは、とても不思議なことだと思う。上のインタビューで述べられているような「密封空間の中で暮らせるかよ」という言葉が、ただ、言葉の意味の上だけではなくて、体感としてなんとなく理解できてしまう。その身体性を持っていることは、とても奇妙で、現実を異化してくれるかのようだ。