原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

山崎ナオコーラ『この世は二人組ではできあがらない』

 ついに帯に「無冠の帝王」とまで書かれるようになった山崎ナオコーラの新刊です。「素朴な社会派小説」と帯に書いてありますが、いい意味で「小説ってなんだっけ」と思わせるような小説で、ナオコーラの小説はすごいところにやってきたな、と思いました。
 山崎ナオコーラという人は、素で言ってるのかあえて言っているのかわからないくらい、「身も蓋もない」言動の多い人で、その小説において採用される語り手の語り口も、「身も蓋もない」ものであることが少なくありません。たとえば、次のくだり。

「どうして、自分を卑下するの? 栞ちゃんはダイヤモンドの原石みたいなんだから、ちゃんとした人に、大事にされなくちゃ駄目でしょ?」
 母が言った。
 母はおそらく、女は男に優しく扱われるべきだ、という戦後日本に入ってきたアメリカ的価値観のもとに人生を捉えていて、女を大事にしない男と仲良くしようとすることを、女自身の価値を下げることだと考えているのだ。

 この「母はおそらく〜」以降がすごい。普通、小説の語り手はこういう語り方をしない。まるで、そのまんま「解説」するように、この小説の語り手は、事態に対し、自らの見解を淡々と述べていく。
 山崎ナオコーラは、『論理と感性は相反しない』あたりから、あえて「自分そのもの」に近いような登場人物を語り手に据えることが多くなってきているように思うのだけど、それは別に「私小説」的に小説を書こうという意識から来るものでもなくて、どこか「身も蓋もなさ」のひとつの現われのようにも思える。「あれ、小説ってこんなんだっけ」と思わされながら、しかし、これはなにか、と問われれば小説以外の何者でもない。そんな気分にさせられる小説だ。
 この小説の中には、いくつもの問題意識のようなものが、おそらくあえて稚拙なまま投げ出してある。あっけにとられるほど「身も蓋もない」かたちでごろんと転がっているけれど、その問題意識のひとつひとつは、私が持っている問題意識ともきらきら呼応する。

 学校で、クラスをまとめるために先生が生徒を「班分け」するように、社会では、国民を統括するために、国が「家族分け」しようとしているのではないだろうか。

 まだ誰も見つけていない、新しい性別になりたい。

「女だって、セックスで大人になるんじゃない。社会でのし上がって大人になるんだよ。社会的成功で成長するの」
 私は教えた。

 よくみると、これらの描写には、とくに説明が付されていなくて、この小説の特徴は、こういったことを描きつつも、全然説得的でない、ということなのかもしれない。語り手の意見として、これらの問題意識はごろんと投げ出されるけれど、それがなにか読者を深く考えさせる──というものでもない。そういった問いかける語り方を、この語り手はしていない。けれど、こういったごろんとした問いに出会いながら奇妙な時間の流れを持つ、年代記のようなこの小説を読んでいくと、無表情な視線にさらされるような、そんな気分になる。不思議な小説です。