原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

バーチャル空間としての書店

「知ってるかい? 昔、“本”は紙に印刷されて、お店で売っていたんだよ」
「そんな贅沢なことができていたんですか?」

 昨年末から電子書籍の話をよくみかけるようになって、iPadとかもその流れで語られている部分もあるし、Kindleほしいなあと思ってみたりもした。ただ、あまり電子的に本が買えて便利! というよりは、単純にPDF化した書類とかなんやかんやを気軽に眺めたい、という方に意識が向いている。でも、雑誌とかは電子書籍で読んでみたい気もする(しかし、それはもはやウェブページとなにが異なるのだろう?)。
 そんなことを思いながら本屋さんにいってみると、当たり前の話なのだけど大量の本がディスプレイされていて、うっかり、「本が現実に“手にとってみられる”ってすごいなあ」と思ってしまって、くらりとした。もし、すべての書籍が電子化される日が来るとして──それはあまりに極端な想像だけど──そのとき、“ディスプレイ上に描画されたバーチャルな書店にログインして、まるで実際の本屋さんのように、手にとって本を選べる”ようになる、という未来が見えたような気がして、その本末転倒感というか、一周回って元に戻ってる感のようなものに勝手にびっくりした。
 これは別に、「だから電子書籍なんてばからしい」という話でも、「やっぱり本は手にとって選ばないとね」という話でもなくて、ただたんに「そういうこと」が起こるのかもしれない、という未来に一瞬立ってしまったような錯覚が面白かったというだけのことだ。ただ、電子化が引き起こすことのひとつには、“本を読むモチベーション”に対するなんらかの変化であるようにも思えて、それがどのようなことなのか、ということは、まだ想像できない。読書を習慣化している人たちは、どんな媒体であっても本を読むだろう。しかし、読書を習慣化していない人たちは、どうなのだろうか? ケータイ小説がかつてあれだけはやっていたことを思えば、むしろ電子書籍の方が、“読みやすい”ものになるのだろうか。
 iBooksは動画をみるかぎり「めくる」アクションが描画されていたけれど、iPhoneなどの青空文庫リーダーは、「めくる」というよりは「スクロール」する意識の方が強い。それってようするにそのまんま巻物なわけだけど、「本」という、長文をひとつのかたちにする形態は、私たちが普段思っているよりも簡単に覆りうる形態なのかもしれなくて、ただ、まだその新しい想像力は、十分には結実していないように思える。twitterをしばらく眺めていて、結局twitterも時間軸で読まれるものになっていることに、ふとした違和感を持つときがあるのだけど、なにか、手づかみで文章を読むような、新しい文章の形が、すぐそばに来ているような気がしています。それは古いタイプの想像力を駆逐するものではなくて、別の展望が開けるようなものだったらいいと思う。