原子メールの届いた夜に

空き瓶に石ころをためていくような日記です。

「十代の時に横浜を歩いていた感覚が、今の横浜という土地にまだに保存されていて、今の身体が、それとぴったり重なってしまう」

2010-01-22」より。

 横浜を歩くと、ぼくはいつも過去に戻るような感じになる。昔を思い出すというよりも、今の、この空間を、「十代の身体として」歩いている、というような感覚。横浜に毎日通っていた浪人時代と「今」とが直結して、その間に挟まっているはずの二十年以上の時間が消えてしまうというような。いや、それはちょっと違うか。十代の時に横浜を歩いていた感覚が、今の横浜という土地にまだに保存されていて、今の身体が、それとぴったり重なってしまう、というのか。だから、懐かしいという感じとは全然違うし、過去に戻るというのも、違うかもしれない。きっとこの感覚は、たまにしか横浜に行かないからまだ保存されているのだと思う。頻繁に通うようになると、そこに現在の時間が持ち込まれ、それにかき消されてしまうのだろう。

 “心”というのは自分の中にだけあるものではないから、過去に過ごした“土地”にゆけば、過去の“心”が再生される──というのかどうかは全然わからないのだけど、夏には夏の“心”があるし、冬には冬の“心”があるとするならば、一直線上に更新されていく“心”というモデルはちょっとおかしいよね、ということになる。冬のさなかに夏の匂いがすることが──温かい雨が降ったときなんかに──あるけれど、その瞬間、たしかに“心”は夏になるし、そういう意味では成長とかよくわからない。
 “旅行をする”ってなんだろうな──と思ったときに、それは、いろんな場所に“心”の形を刻んでおくことではないか、とも思った。あの、温泉にいったときの“心”。京都にいったときの“心”。それはもしかすると“思い出”と呼ばれるなにかなのかもしれないけれど、その土地その土地に、アーカイブされる“心”の形というものがあるのではないか。それは、ふと思い出すことでもわずかに再生される“心”の形だろうし、「もう一度そこを訪れれば再生されるのではないか」と思える、可能性の束のようなものでもありうるのではないか。
 そして、あるいは文章を書くということも、そういうことだ。私たちは、えてして「過去の文章」を読み返したところで過去の“心”の形が戻ってくることはないと知っているけれど、それでも今を書き残そうとする。私たちは、どうして過去の“心”の形を残そうとし、そして、再生されることを喜ぶのだろうか。