アンディ・ウィアー『アルテミス』
月面都市「アルテミス」を舞台にしたSF作品。解説によると、この都市を舞台にした別の作品の構想もあるようなので、世界観を同じくする作品群のひとつになるのかも。
私はSFをあまり読まないので、この作品がSFとしてどうなのかはよくわからないのだけど、主人公であるジャズの一人称で展開される物語は、徐々にその過去や人間関係が見えてくる面白いものでした。なんでこの人はジャズとこういう関係なのだろう、ということや、ジャズが何の仕事を何のためにしているかということ。酸素に関する設定とか、そういうのもよかった。ジャズは月面都市のあちこちを動き回るので、その動きによって、私たちは「アルテミス」の各所を巡ることができる。
何よりよかったのは、ジャズの一人称の常体と敬体の使い分け。私は、どうもそのスイッチに弱い。
落ち込んでいる時間はない。午後にKSC貨物機が着陸していたから、仕事にありつけるはずなのだ。
説明しておきます──〝午後〟というのは太陽がきめているわけではない。ここでは〝正午〟は二八地球日に一回あるだけだし、どっちにしろ目で見てわかるわけではない。
(『アルテミス[上]』)
『火星の人』がそうだったように、この話もまた、いくつもの計算違いのことが起こる。『火星の人』とちょっと違うとすれば、人間関係の味つけが濃いというところだろうか(何しろ『火星の人』は火星に一人っきりだったのだから)。結果的にこの物語が落ち着くところは、かなりありふれた物語なのだけど、そのありふれた物語が徐々に姿を現すところがよい。一度最後まで読み、そしてもう一度読めば、たぶんジャズの語りの巧みさが読み取れるんじゃないかと思います。
みんなで歳をとる
「ものごころがついた」と言えるのがいつのことを指すのかははっきりしないが、「今の自分」との明確な連続は、大学生のころからになる。もちろん、中学生や高校生のころの記憶もあるし、小学生やその前の記憶だってあるのだが、そのあたりの自分は、今の視点から見れば、半分くらいは「異なる自分」が中にいたような感覚がある。
大学に入学した歳は、PCに初めて触れた歳でもあった。これが、自分の世代にとって遅かったのかどうかはわからないのだが、高校生のころの自分にとって、PCは未知のものだったと言える。そして、それはインターネットとの出会いでもあった。
残念ながら、大学生のころにインターネットで交流していた人たちがどこにいったのかは、もうわからない。当時の「ホームページ」の残骸はあり、そこからのリンク集も一部機能しているはずだが、そこからつながっているのもほぼ全てが廃墟だろう。私たちは、あるサイトのBBSに集い、遊び、そしてそれぞれの「ホームページ」を作っていた。
今、Twitterなどでその生活の欠片を見ている人たちの中で最も初期にあたるのは、はてなダイアリー関係から派生している人たちになる。思い起こしてみても、なぜその人を知ったのか、ということがわからない、ということも大半だけど、Twitterのリストのうちのひとつは、まだスマートフォンではなかった、「ケータイ」のころのタイムラインをある程度維持している。
振り返ってみると、そのころからもう15年近く経っている。だんだんと歳をとってきたし、「下の世代」がたくさんいるなあ、と思うことも増えてきた。もちろん、初期から見ている人たちも、ライフスタイルが変わったり、いつの間にかいなくなってしまったりしている。
しばしば思うのは、こうやって「みんなで歳をとる」んだなあ、ということだ。インターネットがなかったころに、こういう感覚があったのかどうかはわからないのだけど、私たちはみんなで歳をとっている。私の場合、どうもそれは、「リアルな知人」に対して思うよりも、「インターネットの人々」に対して思うようになったようだ。15年、本名も知らず、何も仕事をされているかも(時には)知らず、どこに住んでいるかも(具体的には)知らずに、そのとき何が好きで、何に憤っていて、何をしようとしていて、何を考えているのかを(ぼんやりと)見続けてきた。
しかし、今日ふと思ったのだけど、急にこの状態がぷつんと切れることは、もちろんありうる。たとえば、Twitterがサービスを停止するだけでその行方が(私から見て)わからなくなる人はたくさんいる。Twitterは思ったよりも長く続いているし、私たちもすっかりそれに慣れていると思うのだけど、しかし、30年後にあるかというと怪しい。
30年後にインターネットをしている自分の姿は容易に想像できる。これまで15年変わらなかったのだ。たぶんもう変わらないだろう。だけど、その過程の中で「みんな」と途切れてしまったらそれは大変辛いだろうなあと思った。私は、それほど頻繁にリプライを交わしたり、DMをしたりしているわけではないし、基本的にひとりごとマシーンなんだけど、それはタイムラインという多声の中でのひとりごとで、虚空に向かって発しているわけではない。明確な相手を想定していることは稀だけど、そこには「みんな」への意識が少なからずある。
こうやって文章を書くことで「自分」を形作ることはできるし、もちろん「リアルな知人」によっても「自分」は形作られているのだが、「みんな」がいなくなることは、かなり大きなダメージになるだろうと、思った。
ようするに何が言いたいかというと、みんなでどこかに引っ越すなら、置いていかないでね、ということです。
『リズと青い鳥』(続)
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2回目を見てきました。1度色々な解釈を見たあとだと、ひとつひとつの表情や動作の見方の精度があがって、とても楽しかった。2回目推奨です。
以下、今回の鑑賞で気づいたこと。畳みます。
続きを読む豚丼のこと
「豚丼」を「ぶたどん」と呼ぶか「とんどん」と呼ぶか問題は難しい。さらに難しいのは、「豚汁」を「ぶたじる」と呼ぶか「とんじる」と呼ぶか問題だ。私は「豚汁」は「ぶたじる」派なのだが(だって「とんじる」は重箱読みじゃないですか)、「豚丼」は「とんどん」と呼んでしまうことがある。これは、主に「すき家」を使っていたせいだ。
牛丼や豚丼の鶏バージョンってなんでないの?そもそも牛丼屋の豚丼は、むかし狂牛病騒ぎがあっての、そのとき牛丼はなくなってしまったから、代わりに牛丼チェーン店は豚丼を売ったんじゃ、って故事を話さないと駄目?
2018/04/18 20:57
2003年のBSE問題によって、国内で安価な牛肉の調達が難しくなり、牛丼チェーン店から一斉に牛丼が消えたことは記憶に新しい。……新しくないよ! もう15年前なんですか、あれ……。もはやオイルショック並に歴史上の出来事ですね(でも記憶されていないと思う)。
その当時、カフェなどない土地柄だったので、「すき家」は安価に利用でき、結構だらだらといることができる場所だったわけだけど(迷惑だがお客さんで一杯になる店ではなかった)、あのころは豚丼を食べてたなあ、ということを思い出す。その後、牛丼の復活とともに豚丼は姿を消し、むしろ終盤は豚の方に慣れていたため、「このまま販売すればいいのに」と思っていた。なお、「すき家」は2015年に豚丼を復活させています。
http://www.sukiya.jp/campaign/2015/tondon.htmlwww.sukiya.jp
でも、復活しても(そもそも牛丼チェーン店にはいることが稀なのだけど)、豚丼はあまり食べないんですよね……。これが消費者ですよ、と思う。
『さよならの朝に約束の花をかざろう』
まだうまく咀嚼できていません。
この映画は「エンターテインメントとしてとても面白い!」という映画ではなく、ある意味ではとても地味。だから、見終わったときに、「もう一度観るかな?」と自問してみて、「いやー、もういいかも」と少し思いもしたのです(泣いたりはしたけど)。
だけど、なんかもやもやもやもや引っかかり、映画の中の言葉がぽつぽつと思い浮かんでいく。で、関連サイトを見ていたら、次の言葉に出会いました。
公開前に受けた取材の際に「あなたにとって本作は?」という質問があったのですが、いろんな思いがありすぎて一つに決めきれなくて。堀川さんに相談したら、「私のヒビオルです、って答えるのはどう?」と。うわ、なんか照れる!と思いながらも、あまりにもしっくり来たので、それを採用させてもらいました。
制作ブログ|映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』
あー、あー、あー。
これはいかん。
特典のスタッフ座談会本で、堀川プロデューサーが「男性はエリアルに自己投影して、そこからマキアを見ることが多いようなんだけど」と言っていて、特にエリアルに自己投影することなかったけどなーって思ったのですが、それを読んで半日後、エリアルのことを考え、そこからマキアがどう見えていたか、ってことを考えると、つらくなってきた。というか、なんかこうどろっと、半熟の黄身のようなものが、自分の心の中から溢れそうになっていることに気づいた。
そこに発される「私のヒビオルです」であることを考えると、これはまずい。もう一度観なければ。